わたしと野田村vol.2
こんにちは。「野田村にICU旋風を吹き起こす会」です。今回もメンバーと野田村の出会いについて書いていきたいなと思います。
今回の第二弾は初期から参加してるメンバーのお話です!
私は横浜生まれ横浜育ち。父方の曾祖母が福島県いわき市に住んでいて、少なくとも年に一回、年末年始に福島で親戚と集まるのが恒例でした。
初日の出を見るのが恒例で、今でも欠かさず初日の出を見ているのは福島で年越しをしていたからだと思います。お年玉を握りしめて向かう元旦の地元のお店やストーブの上でじっくりお餅を焼いていた光景は今でもよく覚えている大切な思い出です。
2011年の年末も福島を訪れました。変わらず美しい2012年の初日の出。でも、家路の途中でみた津波で一面流された光景は衝撃的だった。当時小学3年生で、どの街を見たのか、どのような被害があった場所だったのか思い出すことはできません。でもあのとき自分の目で見た光景は未だ忘れません。
震災から数年後、祖父母が亡くなり、葬式で福島を訪れて以降、福島だけでなく東北を訪れることはありませんでした。少ない頻度ながらもつながっていた東北とのつながりはそこで終わってしましました。
そんな中、ICU2年生が始まるときにのだせんの募集を見かけ、直感で応募しました。子供心で楽しんでしかいなかった東北の魅力をもっと知りたい。もう一度繋がりを持ちたいと思ったのかもしれません。
野田村と関わりを持ち始めて2年が経ちました。様々な魅力に触れて、その土地や人々について理解し学ぼうとしています。
私は東北と一括りにしてしまうのはあまり好きではありませんが、私が通っていたいわきとのだむらには絶対的な共通点があると感じています。
それは『海』の存在です。
いわきも海に面していて、美味しい魚が取れ、きれいな日の出も見れます。野田村も全く同じです。
そして、その海は震災で人々の生活を大きく変えてしまいました。
そんな自然と共存しているの人々という点で大きな共通点があると思います。
私が野田村と関わりを持ち、東北と繋がれたと感じるのは自己満かもしれない。でも、幼少期の記憶や経験が今の自分の活動のきっかけにつながっていると考えるととても嬉しいし、きっと曾祖母も喜んでくれていると思います。
仮に私がICU卒業しても繋がりをもちたいと思う限り、野田村とのつながりは消えないはずです。もちろん自らつながりを途切れさせないように努力する必要はありますが、その気持を受け止めてくれる方々が沢山いるのが野田村だと感じています。
のだせんを通してそんなことを考えていました。