第2章
12月某日、日本列島を大寒波が襲う少し前
生まれて初めて救急車に乗った。
いつもとそう変わらない時間に帰宅し、リビングでお菓子とカフェオレを口にした後
右手でスマホ→ゲーム
左手でタブレット→マンガ
という状態で暫くマンガを読んでいた
この時点で何も違和感は無かった(はず)
ほどなくして、左手で操作しているマンガのページ送りが数回失敗する。
この時点で病魔は襲ってきていたのだが、まだ違和感には気づいていなかった。
スマホと比べタブレットは性能が低く、操作の応答性が悪いことをよく感じていたからだ。
冷静に考えてれば、明らかにタップ→スワイプという動作をうまく行えていなかったのだが、このときは(相変わらず反応悪いなぁ。。)くらいに感じていた。
少しして、ようやく違和感に気づく
(アレ?何か変だな)
最初はその程度
(何か左手おかしい?)
徐々に違和感の正体に気づき始める
(左手に力入らないような。。。)
確認するために、左手に力を入れようとした瞬間、テーブルの上から左手がだらんと落ちた
「!!」
ヤバい、という程度の反応しかその瞬間は出来なかったが、転んだ切ったのレベルのヤバさでないのは瞬時に理解した。
(とりあえず妻に言わないと。。。)
ほぼそのタイミングで、自室から妻がリビングに入ってきた。
「左手に力入らへん」
発したこの言葉は、すでに呂律が回っていなかったが、呂律が回らないことを、本人もその時点で初めて認識した。
「あ、呂律回ってへん。。」
当然この言葉もちゃんとは言えてなかったわけだが、立て続けに聞いた異様な話し方と、おそらくだが顔の左半分が動いていないのも見て、妻も瞬時に異常に気がついた。
「どうしたの!!!」
質問ではなく叫びのような声
「何かわからへん、呂律回らない、左手に力入らへん。。」
のようなことを言ったと思うが、妻にとってはまともに喋れていないことが全てだったのだろう。
すぐに駆け寄り、椅子に座ったままの私を抱きしめ
「ごめんね、こんなことになってるのに気づいてあげられなくてごめんね」
この言葉はハッキリ覚えている。
(いや、ホントに自分自身ついさっき気づいたところなんだよ。。謝らんでくれ)
思い出しても涙が出る。
「救急車呼んだ方がいいよね?すぐ電話するから!」
妻も相当焦っていたが、それでもすぐに119番してくれた。
呂律が回らなくなっていた私一人だったとすると、うまく救急車を呼べたか甚だ怪しい。
症状から脳に何か異常が生じたであろうことだけはぼんやり理解していた。
救急車を待つ間、妻には
「ゴメンな」
の言葉しか出てこなかった。
この時点では
・ただただヤバい
・迷惑かけた
の2点くらいしか頭になく、救急車が到着して担架に乗せられるときも、救急車に乗り込むときもずっと
「ゴメンな」
しか言っていない。
それに対する妻の反応は覚えていない。
幸いにも病院がそこそこ近くにあったので、119番から病院到着までおそらく30分かかっていない。かなり早かったのだろうと思う。
当然救急の方に搬送され、10人近い医療関係者が一斉に動き出す。
服は全部脱がされ、尿道カテーテルをさしこまれ、脳梗塞のカテーテル手術のための管を差し込むために下の毛も剃られ、熱を測られ血圧を測られ、挙げ句にPCR検査まで。
傍から見ていたらすごい光景だったろうなと思う。
119番した時点で、ほぼ脳梗塞であると判断されており、現場では迅速な対応が取られたのだと思う。
ただここで緊急処置を担当してくれた医師から衝撃の一言が
「今から脳梗塞の処置をします。死ぬことはありません。ただし元の生活には戻れないと思ってください」
前半ちょっと曖昧だが後半は一字一句覚えている。
医師のこのコメントにより、急に色んな“現実”が頭の中に降って来る。
(え??元の生活に戻れない??麻痺したままってこと??)
(妻も両親もいるのに??)
この時点でようやくヤバさの現実に気づく。
ちなみにずっと意識はありMRIからカテーテル手術から、病院での全ての処置を、多少朦朧としていた部分はあるものの、覚醒した状態で受けている。
医師の名誉のために言っておくと、その発言の後に
・△△%は元通りになる
・今からの処置でその確率が少し上がる
・その分リスクはあるが、やるべきなのでやる
との発言もあったのだが、<戻れない>のインパクトは強すぎた。
足がガクガク震え始める。ほぼ裸の状態だったので、寒かったのもあると思うが、間違いなく恐怖からの震えで、これも生まれて初めての経験であった。
もう体が、揺れるくらい震えていた。
最初の処置で、症状が和らぐのを実感できた。
カテーテル手術のために手術室に搬送される際、待機していた妻と少しだけ話すタイミングが
また「ゴメンな」と言う
さっきまでよりも聞き取れる言葉になっている。
力が入らなかった左手にも少し力が戻っている。
「実家には。。。?」の問いに妻が
「○○さん(私の母)来るって」
軽くうなずく
手術室に入る前
「頑張って」
と妻
私は何も頑張りようが無いが、こう声をかけるしかないだろう。
普段2人でよくやる合図として、右手をグーにしたまま顔の横くらいまで上げる、招き猫のようなポーズがあり、妻はいつものそのポーズをしてくれた。
掛けられていた毛布のせいでほとんど見えていなかったと思うが、動くところを見せたかったので、私はあえて左手でそのポーズを返した。
カテーテル手術開始。ここでまた恐怖に襲われる。手術中に症状がぶり返したのだ。
ちょうど家で症状に気づいた時と全く同じ感覚
(ああ。。アカンのか。治らへんのか)
という絶望的な思いがよぎり、さっきまで以上に震えはじめる。
「また(症状が)戻っています」
のようなことを発言したと思うがハッキリとは覚えていない。
ずっと覚醒していたが、手術中は恐怖もあり、またそもそも朦朧としていた可能性もあり、最後どのような状態で終わったのかは記憶が曖昧。
おそらくぶり返した症状が、もう一度落ち着き始めたくらいで手術は終わったように思う。
術後、ICUに搬送される際、担架の上の私を覗き込む妻と母の顔。
妻の顔は強張っていた。
母の顔は。。。優しく微笑んでいた
両親にとって子供は私一人。
外から見ればお婆さんとおっさんでも、彼女にとってはいつまでも最愛の一人息子であることを、私も理解している。
妻から一報があった時、どれほどの衝撃を受けたろうか。。。足が悪いにも関わらず、夜遅くに大慌てで駆けつけてくれたのだろうが、その間の不安たるや、想像を絶するものだったに違いない。
それでも笑顔。術後の私を不安にさせないための、全力の優しさだったのだろう。強い。母には敵わない。
<親より先に死ぬ>という最悪の親不孝をしなくて済んで、本当に良かったと思う。
ただこの思いに至ったのは術後数時間経過してからだ。
やはり手術前後は私も相当混乱していたのだと思う。混乱していたのか、焦っていたのか、ただただ怯えていたのか。。。
ICUは想像していたのと全く違っていて、野戦病院のようなところだった。
ナースコールは鳴りまくり、ずっと呻いている人もいたり。。。
術後24時間が特に重要とのことで、最初は1時間おきくらいに<脳障害が出ていないか>を確認するテストがあるため、寝れたもんではなかったが、幸いにも症状はすっかり無くなっており、会話も普通にできる状態になっていた。再発しないことを祈るしかなかった。
カテーテル手術のために通した管は、再発症したときの処置のためだと思うがまる1日そのままで、ほとんど身動きの取れない状態が続いた。
腰と背中がつらい。。
ただこの時点で“助かったこと”が全てと感じていたので、辛いのも何もかも、我慢できるなと思っていた。
翌日、24時間再発が無かったことで第一関門をクリア。カテーテル用の管がようやく抜かれる。
大量出血を恐れ先生自ら15分ほど止血しておられた。
夕方、ICUから別の病室に移動。この部屋で数日経過観察をすることに。
ベッドでの安静が続く
その間幸いにも症状が再発することもなく、色々不便はあるものの、生きるため・復帰するためなら我慢しようと思えたのだが、不安は何度も襲ってくる。
少しでも手に違和感を感じると、再発か?と疑ってしまう。
少しでも頭痛がすると、また来るのか?と思ってしまう。
復帰できたとしても、また再発したらどうしよう。。。次はどうなるんだろう。。。と、悪い方にしか頭が働かない。
You Tubeでカバー曲メドレーを聞いていたら花*花の「さよなら大好きな人」が流れてきて号泣した。
昼夜問わず、思いが込み上げては何度も泣いた。
術後5日が経過。主治医の先生との面談。
・2年前の状態からこの期間での発症は今までほとんど見たことのないレアな例
・脳梗塞の場所がコンマ数ミリずれていたら後遺症残っていた
とのことで良い方にも悪い方にもレアなところを引いてしまったようだった。
2日後の検査で問題が見つからなければ週末には退院できるとのこと。検査での大どんでん返しが無いことを祈るばかり。
以上がこのメモを書いている時までの、約1週間の出来事である。
このメモは自分の記録として残しておきたくて書いているが、特に残しておきたいのはこの間の"感情・気持ち"の部分である。
術後、最悪の自体をとりあえず避けたのだろうと言うことを受け止めながら、<もし最悪の自体になっていたら>を何度も想像しては涙を流した。
今回私の体に起こった病は、交通事故のようなもので、予期せず急に<機会>を奪う。
大切な人に、お礼や感謝、思いを伝える機会を一瞬にして奪ってしまう可能性があった。
また次に会った時に、また次に話した時に。。。とぼんやり考えていた全てが出来なくなる。
そうなったかも知れないことを想像してしまうと、とても大きなマイナスの感情が押し寄せてきて、悲しさ・寂しさ・切なさに押しつぶされそうになる
大切な人には、一方的にでも良い
ありがとう
あなたのことが大好きです
あなたに感謝している
あなたとの縁が、私の人生を素晴らしいものにしました
など自分の思いを伝えておくべきだな、いや伝えたい。と痛感し、ある程度動けるようになった時点でまるで遺書のようなメッセージを送り付けた。
伝えないまま、伝えられない状態になった時、その時すでに自分自身はそのことを知りすらできない可能性もある。
大切な人に思いを
そのために自身の健康を大切に
今後の自分への戒めと、他の誰かが健康を見直すきっかけになれば。