【 あめの物語 松島編 5】
その夜、慈雨は今まで私に見せたことのない反応をした。内からこみ上げてくる得体の知れないなにかを、すべて吐き出すような激しさがそこにはあった。
私の胸に頭を乗せている慈雨の柔らかな黒髪を撫でながら、私は尋ねた。
「いつものおまえと違うようだが、なにがあったんだ?」
「心臓の音が聞こえる……」
答えにならない慈雨の言葉は、沈黙の時を連れてきた。
静寂な闇の中、その沈黙の時を止めたのも慈雨だった。
「4月25日なの」
「その日がどうしたんだ」
「私が生まれたと、決められた日なの」
「決められた? どういうことだ」
聞き返して私はハッとした。
「それはもしかして……」
「やっぱりね、あなたならすぐわかると思ったわ。そうなの、私の見つかった日は10月25日。生後六ヶ月ぐらいだったから、誕生日は4月25日になったの」
慈雨は養護施設に置き去りにされていたのだ。つまり言葉は悪いが、捨て子だったのだ。
施設の園長は、そんな時のためにといつも玄関近くに施設の車を停め、ロックを外していたようだ。慈雨はその車の中で発見された。
泣き疲れ眠っていた慈雨を見つけたのは、夜の見廻りをしていた職員だったという。
やがて里子に出されるだろう赤ん坊に、里親から「天の恵みと思って愛されるように」と、園長は慈雨という名前を与えた。
その日も今日のように弱い雨が降っていたという。
これまで背負ってきた悲しさ・辛さ・空しさ・怒り・苦しみ…… そんな言葉にできない慈雨の心の闇は、暖かい雫となって私の胸に落ち、心の襞まで染み込んだ。
繰り返し繰り返し、慈雨の雫が容赦なく私の心の襞を震わせる。
「もうなにも話さなくていい」
私は力任せに慈雨を抱きしめた。
「悪かった、オレが余計なことを聞いたから」
そう言いながら、私は慈雨を抱きしめた。
「抱いて…… もう一度……」
泣きながらしがみつく慈雨を私は抱いた。
「なぜ…… 余計なことを聞いてしまったんだ」
後悔の気持ちを振り払うように私は慈雨を抱いた。
闇の中で二人はただの雄と雌となり、欲情のまま獣のように激しく抱き合い、やがて疲れはて深い眠りの闇に堕ちていった……
子どもの置き去りが社会問題になっていた1970年代、コインロッカーに置き去りにされた子どもたちはワイドショーの格好のネタとなり、マスコミは捲し立て煽りたてた。
この一連の事件をモチーフとした『コインロッカー・ベイビーズ 』という《村上 龍》の長編小説が1980年に発表されると、たちまち巷の話題になった。
だが私はそのことに、言い知れぬ違和感を抱いたのだった。
慈雨が置き去りにされたのは、そんな1980年代の始めだった。
先に目を覚ました慈雨が私の胸をつついている。むず痒い感覚に目を覚ますと「ゴメン、おこしちゃった?」と、慈雨が私の目を覗き込んで聞いた。
「今、何時だ?」
「三時近くだと思う」
私は少し考えて慈雨に聞いた。
「雨は?」
「止んだみたい」
「よし、行こう」
「行こうって、どこに?」
「円通院、あそこなら必ず聞こえるはずだ」
「なにを聞くの?」
「いいからついてこい」
私たちは浴衣に半纏を羽織って玄関にむかった。
夜明け前のフロントには誰もいない。
「開いてるの?」
「大丈夫だろう」
心配そうに聞く慈雨にそう答えながら旅館の下駄を履いていると、夜勤の職員が奥からでてきた。
「こんな時間におでかけですか?」
「この時間でないとダメなんだ」
怪訝そうに見ている職員に「一時間位で戻るよ、心配いらない」と告げ、外にでた。
十分くらいの距離を並んで歩き、私たちは円通院についた。
あたりはまだ結界を張った闇に支配されていた。
「ちょうどいい時間についたな」
「怖いわ」慈雨がしがみついてくる。
もうすぐ訪れる光を待つこの時間は、闇が一番深い。
「もうすぐだ」
私は慈雨の肩を抱き「後は喋るな」と言った。
どのくらいの時が過ぎたのだろう。
「聞こえる!」
「え?」私の声に、慈雨があたりを見回す。
「ほら、だんだん大きくなっている」
それは光の気配を感じて鳴きはじめた、野鳥たちの声だった。
「鳥?」
「そうだよ、鳥たちはもうすぐ日が昇ることを知っている。だから鳴きはじめているのさ」
次第に大きくなってくる野鳥たちの声、いったいどれほどの野鳥がいるのだろう。気がつくと私たちは、やさしい朝の野鳥の声に包まれていた。
「スゴい! こんなこと初めてよ」
興奮気味に慈雨が声をあげる。
「そりゃそうだろう。だいたいこんな早い時間に起きて野鳥の声を聞くなんて、よほどの物好きだ」
「あなたがその物好きでよかった。でなかったら、こんなにやさしい鳥たちの声を聞くことなんて、一生なかったと思うわ」
闇の結界が切れはじめ、低くこもったような『クァ・クァ』という声が混じりだした。
「え! なに?」
「カラスだよ。街では嫌われ者のカラスも、朝はこんなにやさしい声で鳴くんだ」
「スゴい! ぜんぜん違う。街で聞くととても怖い声なのに、朝はこんなにもやさしいのね」
「オレも初めて聞いた時は、驚きというより感動を覚えたよ」
「ありがとう。あなたと一緒でよかったと今、本当に心からそう思っているわ。誰にも話したことがなかったのよ、でもあなたには話しておきたかった…… ううん違う、話さないといけないって思ったの」
空が明るさを増す。覆い尽くした雲をすり抜けた光が闇の結界を解く。ここはもう光の縄張りに変わった。朝がきたのだ。
「誰にでも簡単に話せる話じゃないんだ、一人でどれほど苦しかったのだろう」そんなことを考えながら、
「帰るか、このショーはもう終わりだ」
と言い、慈雨の話を私は軽く流した。
「お風呂に入りたい。あなたのせいでベタベタよ身体が」
「おい、それはオレが言うセリフだろう」
「違うわ、悪いのはあなた! だって昨夜謝っていたでしょ、私に」
「やれやれ、こりゃ敵わないや。はいはい悪いのは全部私です」
「素直でよろしい。それじゃ帰ってお風呂に行こう」
朝の薄日に包まれた慈雨は、天使のようにキラキラと光っていた。
「こりゃ本物の『天の恵み』だ」
私は小さく呟いた。
… 完 …
Facebook公開日 6/7 2017