【柱時計は動いていた】
「どっこいしょ」
老婆はちゃぶ台に手をついて立ち上がった。数歩歩いて柱に手をつく、その柱には古い柱時計がぶら下がっている。
「あんたも年を取ったな…… ここに来て何年になるかね~」
老婆はそう柱時計に話しかけた。
この柱時計は夫の哲夫が生前、友人の骨董品店からタダ同然の値段で買ってきたものだ。すぐ壊れてしまうと思っていたのだが、二十数年間狂いもせずに動き続けている。
「あんたにゼンマイを巻くのも一苦労になったよ。やっぱり歳をとったね、私も……」
そんなことを呟き、部屋の隅から踏み台を持ってきた。柱の前に踏み台を置くと、「よいしょ!」と自分に気合いを入れて踏み台に上る。老婆にとって、体を伸ばして柱から時計を外す作業は一苦労だ。
やっと柱時計を外し、床に置いてから「やれやれ」と一呼吸置く。時計の扉を開けて緩んだゼンマイを巻こうとしたが、ゼンマイ回しが小さいため、握力が落ちた老婆の力ではなかなか回ってくれない。
「ダメだ、やっぱり敏夫に頼もうかね」
ゼンマイ回しを時計の中に片づけながら、老婆はそんなことを考えてみた。
老婆の名前は妙子といい、八五歳になる。十一年前に夫を亡くし、その後は一人暮らしをしていた。
子どもは二人いた。長男の和雄は独身で東京に住んでいるが、長女の葉子は地元の男性と結婚して、妙子の自宅のすぐ近くに家を建てて住んでいた。
妙子が頼りにしている敏夫は、この長女、葉子の長男だ。
やさしい孫の敏夫は、事ある毎に祖母の面倒をみている。妙子の小さな困りごとも、高校生の敏夫にはなんでもないことだった。
「おばあちゃん、ぼくがやってあげるよ」
いつもこう言って、妙子の困ったを助けてあげていた。
「一緒に暮らそうよ、お母さんもそうしたいって言ってるよ」
「そうだね。敏夫と一緒だったら、きっと楽しいね」
「だったらそうしよう」
こんな風に、敏夫はいつも妙子に話していた。心臓に持病を持っている妙子を心配して、娘の葉子も事ある毎に「おばあちゃん、一緒に暮らそう」と話していた。
葉子の夫、弘幸も「おばあさんがいいなら、私は構わないよ」と言ってくれ、新築した時に妙子用の和室を追加で作ったくらいだ。
しかし、妙子は「おじいさんと暮らしたこの家が一番いいんだ」と言って、亡き夫と暮らした小さな家を守るように一人暮らしを続けている。
「えぇ…… と、これを押すのか」
敏夫が作った『電話のかけ方』を見ながら、その敏夫に電話をかける。妙子は、買ってもらったばかりの『振り込め詐欺撃退用』の電話機が、まだうまく操作できない。
「おばあちゃん、どうしたの?」
「敏夫かい、元気にしていたかい」
「元気だよ、お母さんに用事? 今買い物に行ってるよ」
「いいや、敏夫にお願いがあったんだ」
「何? 具合悪いの」
「そうじゃない。なにね、時計が止まったんじゃ。ゼンマイを巻いてほしくてね」
「なぁんだ、そんなことか。いいよ、でもすぐには行けないんだ。これから友だちが遊びに来るから、夕方でもいい?」
「いいよ、いいよ。敏夫が暇な時でいいから、お願いするよ」
「わかった。友だちが帰ったら、そっちに行くね」
「ありがとうね、待っているよ」
そう言って、妙子は電話を切った。
「ばあさんや、何しとるんじゃ」
「あらま、おじいさん。何じゃありませんよ、時計が止まっているんですよ。そんな天井から見てないで、ゼンマイを巻いてくださいな」
「わかった、わかった。わしにまかせなさい」
哲夫はゼンマイ回しを手に取り、カリカリとゼンマイを回しながら、
「ばあさんも歳をとったな~ こんなこともできなくなったか」
と言い、「ハハハ」と笑った。
「そりゃそうですよ、おじいさんがそっちに行って何年になると思います」
「何年じゃろう…… まだ二年くらいじゃろう」
「バカおっしゃい、もう十一年が過ぎました。来年は十三回忌ですよ、ボケたんじゃありませんか」
「もうそんなになるか、じゃあ、ばあさんも年を取るはずじゃ」
「そうですよ、十三回忌にはみんな集まることになっていますからね」
「もうそんなことまで決めているのか」
「もうって、来年ですよ。すぐじゃないですか」
「そうか、みんなも元気にしているか」
「元気ですよ。そうだ、羊羹食べますか。昨日お隣から頂いたものがあるんです」
妙子はそう言うと、そそくさとお茶の用意を始めた。
「どこの羊羹をもらったんだ」
ゼンマイを巻き終えた哲夫が、羊羹をひっくり返して作ったお店を見ている。
「おじいさんの大好きな『胡麻屋』さんのですよ。お隣のお美代さんが『お彼岸だから、お仏壇にあげてください』って、買ってきてくれたんですよ」
「ありがたいね、食べたかったんだ。お礼に何かしないとな」
「やめときなさい、びっくりされますよ」
「それもそうだな。だが、もらいっぱなしっていうのもなんだな……」
「私がちゃんと、お礼をしておきますよ」
「それができればいいんじゃが……」
「それくらいはできますよ、まだもうろくしていません」
「もうろくの話じゃないんだ」
「なんですって」
「いや、なんでもない」
「さぁ、お茶が入りましたよ。こっちに来て一緒に羊羹食べましょう」
「この時計を掛けてしまうよ」
「気をつけてくださいよ、台を持ちましょうか」
「大丈夫だ、まかせなさい」
「危ないから、持っていますよ」
そう言いながら、妙子は台を支える。柱時計はいつものように柱に掛かり、カチカチと音を立てて動き出した。
「良かった、これで時間がわかります。おじいさん、ありがとね」
「なに、たいしたことじゃない」
「それじゃ、お茶にしましょうね」
「あぁ、お茶にしよう」
哲夫と妙子は丸いちゃぶ台に座り、お茶を飲みながら羊羹を食べた。
「ここの羊羹は相変わらずうまいのう。ご亭主もずいぶんと歳をとったろう」
「もう羊羹は作っていないらしいですよ」
「じゃ、この羊羹は誰が作ったんだ」
「息子さんが、後を継いでいるんじゃありませんか。たいしたものですよ」
「あの暴れん坊の道楽息子が、この羊羹を作っているのか?」
「今は立派な跡取りですよ。去年かわいいお嫁さんをもらって、そうそう来年には孫が産まれると喜んでいましたっけ」
「それはめでたいことじゃ」
「本当に、おめでたいことですね」
「しかし、この羊羹があの息子の作ったものとはな…… 親父の味そっくりじゃないか。この味は親父にしか出せないと思っていたんだが、たいしたもんだ」
「あら、おじいさんがそんなに褒めるなんて、珍しいですね」
「そんなことはないぞ、わしはいいものはいいと褒める」
「そうでしたか? こっちにいた頃は天邪鬼だったじゃないですか」
「だからそれはじゃな……」
「わかっていますよ、おじいさんは恥ずかしがり屋でしたからね」
バツが悪そうな顔をして、哲夫は羊羹をたべている。
「あんまり食べると、虫歯になりますよ」
「もう歯など、無いわい」
「あ、そうでしたね。失礼しました」
「お前こそいっぱい食べて、せっかく残った歯が虫歯になるぞ」
「あ、そうですね。美味しくてつい」
そんな話を、二人は楽しそうにしていた。
「どれ、そろそろ時間じゃな」
「まだ、いいじゃありませんか。羊羹も残ってますよ、お茶を新しくしますから」
「そうもしてられんさ、神様との約束じゃ。さぁ、お前も支度をするんだ」
「あら、今日は私も一緒ですか」
「あぁ、むこうの神様が『一緒に連れてこい』と言ってくれたんじゃ」
「おじいさんと一緒に行けるなんて、思ってもいませんでしたよ。嬉しいですね~ 私は方向音痴だから、そちらに行くときに迷子になったらどうしようって、そればかりを心配してましたもの」
「旅行にも一緒に行けなかったからな…… 行こうと口約束してからすぐに、わしゃ倒れてしもうたし……」
「一生懸命働いて頂いて、やっとゆっくりできると思っていたら、直ぐに倒れられて、そのままあっちに行ってしまって……」
「お前たちに、迷惑をかけなかったんじゃ。褒められると思っとったぞ」
「ほんの少しでも、迷惑かけてほしかったですよ。介護の真似事もさせてくれないなんて……」
「そんなことをしたかったのか?」
「したかったですよ。それなのに……」
「そういうなって、お前はそうでも子どもたちは大変だったと思うぞ。こんな年寄りを介護するのは」
「そんなことないですよ、和雄だって『勝手にさっさと行ってしまって』と泣いていたの、おじいさんだって見てたでしょ」
「そんなこともあったな。ま、昔のことだ。どれ、そろそろ行くぞ」
「はいはい、今準備しますね」
妙子は古い箪笥を開けて、気に入っていたブラウスとスカートを取り出した。
柱時計がボンボンボンと、三つ鐘を鳴らした。
「おばあちゃん、きたよ」
敏夫が玄関で声をかけたが、妙子の家は静まりかえっている。
「おばあちゃん、いないの?」
そう声を掛けながら敏夫が引き戸を開けてみると、スルスルと戸は開いた。
「また鍵かけてない、お母さんに叱られるよ」
そんなことを言いながら敏夫が部屋に入ると、妙子はちゃぶ台に突っ伏していた。
「なんだおばあちゃん、いるんじゃないか」と敏夫が声を掛けても、妙子は身動きひとつしない。
「え! ちょっとおばあちゃん! おばあちゃんってば!」
敏夫が肩に手を掛けて揺り動かすと、妙子の体はされるがままゆらゆらと動くだけだった。
ただならぬ状況を感じ取った敏夫は、すぐ母親に電話をかける。
「お母さん、すぐこっちに来て! おばあちゃんが変なんだ! ぜんぜん動かないんだ!」
柱時計が、ボンボン…… と五つ鐘を鳴らし、夕方の五時を知らせていた。
--完--
Facebook公開日 9/17 2020