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【雪玉】
「タクシーで帰ればよかった」
始発のバスで郊外に行く乗客は少ない。乗っていたのは木実だけだ。僅かな出費を惜しんだことを、木実はバスの中で後悔した。
「しまった、昨夜は雪だった。もうぜんぜんついてないわ……」
バスを降り、いつものようにアパートに帰る近道に入って木実は思った。
昨夜は日付が変わった頃から吹雪いていて、近道の原っぱには新雪が十センチをはるかに越えて積もっている。雪雲は去って朝日が新雪を照らしていたが、この照り返しは眩しすぎて、朝帰りの木実は目を細めた。
強風はまだ残っていて、川を走り木実まで吹き飛ばしそうな勢いがある。
その風で揺れた枝から雪が落ちた。その雪は積もった雪の上に落ちると、風にあおられ雪の上をコロコロと転がる。落ちた雪は少し大きくなった。木実はずっとその雪玉を見つめている。
風が強くなり雪玉をコロコロ転がす。転がるたびに、雪玉は少しずつ大きくなる。また転がる、大きくなるを雪玉は繰り返していた。
「そうだった、はじめは小さなことだったんだ」
たわいないいざこざ、どうでもいい程度の不満。そんな小さな不満がひとつ芽生えると、どういう訳かこの雪玉のように、転がるたびに大きくなる。
それはやがて、かかえられないほどの大きな不満となって、木実の心を埋め尽くした。いや、そんな不満をコロコロ転がして、大きくしていたのは木実自身だった。
何かにつけて滋に食いつき、自分が大きくした不平不満だけをストレートに滋にぶつけた。
「ううん違う、本当は不満じゃない。かまってほしかった。もっともっと、自分だけを見てほしかった」
木実は一つ年上の滋と一緒に暮らしはじめてもうすぐ一年になる。始まりはいつでも楽しい。チョコレートフォンデュを二人で食べているような甘い生活は、やはり二か月で終わった。
磁石のように引きあっていた二人は、たまに同じN局が向き合ったように反発することがあった。だが、すぐにどちらかが局を変えて、またくっついた。
そんな生活が惰性となることに、木実は不満と共に不安も感じていた。二八歳という年齢が木実に結婚を意識させ、焦りが冷静な判断をさせなかった。
滋はというと結婚などどこ吹く風、まったく呑気に「今が満足だから、これでいいよ」と言う。
童顔の滋は実年齢より二、三歳は若く見られることが多い。三人兄弟の一番下で、甘えん坊の性格はなかなか直らない。付き合っていた頃は「かわいい」と思っていたが、一緒に暮らしはじめると、物足りなく、頼りなく思えてきた。
一緒に暮らすということは、付き合っていた時にプラスだったことが、マイナスに変わることを意味する。見なくて済んでいたことが、見えるようになることであり、見せたくなかったことを、見られてしまうことなのだ。
「木実は滋さんのこと、ちゃんと見てあげてたの?」
麻乃の言葉が胸に突き刺さった。
麻乃と木実は女子高校の同級生で、高校時代の三年間を同じクラスで過ごした。麻乃は木実を呼び捨てにしていたが、木実は「麻ちゃん」と呼んでいた。
麻乃が自分の名前をあまり好きではなかったからだ。理由を聞くと苗字と名前の区別がつきにくいからだと言う。
確かに『あさの』という苗字の人物はけっこういる。
「私は名前で人を区別しないけど、『あさの』っていう苗字の人とは絶対結婚しないわ」と真顔でいう麻乃の話に、高校時代の木実は大爆笑した。
「あなたの気持ちもわかるわよ。誰だってそうよ、自分だけを見ていて欲しい、当たり前よ。でもね、ちょっと考えてみて、滋さんだってそう思っているんじゃないの。あなたは自分の不平不満だけを言っているけど、彼にはどうなの? ちゃんとしてあげてた?」
「ちゃんとって、なによ?」
「だから彼のこと、ちゃんと見てあげてたの? ってこと」
「・・・・・」
木実は何も言い返せなかった。
いつからか、小さないざかいや口喧嘩をするようになっていた。それが大きな声を出しあう喧嘩になるまでに、そんなに多くの時間は必要なかった。
そう、目の前にあるこの雪玉のように、あっという間の出来事だった。
その後、木実は滋とこの一週間口をきいていない。すでに木実は、喧嘩の原因が何だったかさえも思い出せない程、頭の中は不平不満だらけになっていた。
たまりかねて、親友の麻乃を呼び出し、昨晩は夜通し飲んでいたのだ。
独身の木実と違い麻乃は二度結婚し、半年前に二度目の離婚をした。
三人兄弟だったが、兄弟に挟まれた長女で男勝りのさっぱりとした性格の麻乃は、はっきりとものを言う。悪気はないのだが、その言い方が木実にはキツく感じることもしばしばあった。
木実はというと、姉が一人いる二人姉妹で大人しい。はっきりものを言うことが苦手で、どうしても不平不満を内に溜め込んでしまう。そのためなのか、溜め込み過ぎて爆発すると、もう自分でも止められなくなるのだった。
ただ男と暮らした経験ということに関してだけは、まったく麻乃には敵わない。そんな木実は少し意地になって麻乃に言う。
「麻ちゃん、はっきり言うけどね。私はね、まだ自分の婚姻届にサインもしたことないのよ。それなのにあなたの婚姻届と離婚届に、もう四回もサインさせられたわ」
「それだけあなたとは違って経験豊富なのよ。経験者の話は素直に聞くものよ」
「どっちも失敗じゃない」
「なんですって!」
そんな二人の話を聞いていたバーテンダーが、カウンターに背を向け肩を小刻みに震わせて、必死に笑いを堪えていた。
「ま、その話は後にして、木実勘違いしないでね、私はあなたに気づいて欲しいの。不平不満を大きくしているのはあなた自身よ。疑心暗鬼になって、自分で大きくしているだけよ。ちゃんと自分の気持ちを整理して、滋さんに話して、それから彼の話もちゃんと聞いてあげる。まずここからじゃない」
「・・・・」
黙って話を聞いている木実に、麻乃は話し続ける。
「それでもダメなら仕方ないけど、今のあなたの話聞いてると、一方的に自分の不平不満を押し付けているだけじゃない。悪いけど彼の気持ち、私にはわかるわ。そんなことされたら誰だってムキになるわ、男の人は特にそうよ。それに早くしないと手遅れになってしまうわよ」
木実は雪玉を見ながら、麻乃の話を思い出していた。
「麻ちゃんの言う通りね、私は見てあげてなかった。ただ、見てほしかっただけ。わがままだったんだわ、謝ろう滋に『ごめんなさい』って謝ろう」
そう決めると、木実は一気に心が軽くなった。
「この大きくなった雪玉だって、溶ければなくなる。私の不満だって、きっと一緒、溶ければ全部なくなる。自分で転がして大きくしちゃったけど、本当はどうでもいいちっちゃなこと、溶ければ一緒に流れてなくなるわ」
木実はまだ誰も歩いていない新雪の上を、一歩一歩、踏みしめるように歩きだした。
…終わり…
Facebook公開日 2/1 2019
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