【道行き6-4】
【第六章『病院』-4】
一旦自分のアパートに帰った八雲は、夕方まで仮眠を取った。見舞いを持って再度病院に行くと、八雲の訪問を茉由は喜んで迎えた。
「わかった、これからは気をつけるよ」
「本当は恥ずかしがる歳でもないのよね」
そう言うと、茉由は八雲から離れベッドに腰を落とした。
「何か……」そう言いかけて、「お茶でもと思ったけど、何もなくて……」と、申し訳なさそうに茉由は続けた。
「気を使うことはない。買ってくるよ、何がいい?」
ミネラルウォーターと紙コップが、ベッドサイドに置いてある。
「そうね……」と少し考えてから、「私も行く」と茉由は言った。
営業時間が終了した売店の横に、数台の自動販売機が置いてある。八雲はペットボトルのお茶を、真由は暖かいミルクティーを買って病室へと廊下を引き返した。
「私、明日、退院らしいの」
「そうか、それはよかった。お父さんも安心だね」
「私は気絶しただけだから、入院することはなかったのよ。でもお医者さんが『念のため、今夜は泊まっていきなさい』ですって」
「そう言われたのか」
「うん」
「ま、医者も商売だからな」
しばらく黙って歩いていた茉由が、思いつめたように言った。
「あのね、隆夫が知ってたの」
「知ってたって、何を?」
「私が昌夫さんと一緒だったってこと……」
「一緒って…… 奥新川に行ったことか?」
「うん…… あの夜、隆夫に問いつめられたの『昌夫さんとふたりでどこに行ってた』って、事件の夜に……」
「そうだったのか、それで二人で埠頭に……」
「うん」
病室に着くまでの廊下を、二人は黙って歩いた。
病室に戻った茉由が、ベッドに腰掛けながら言う。
「怖かったの! あの男の人達じゃなくて、あの時の隆夫が…… まるで昔に戻ったようで、私とっても怖かったの……」
「わかった。隆夫が元気になったら、私からも聞いてみよう。だから心配しないで今日は休みなさい」
「でも……」
「たぶん今、一番混乱しているのは隆夫くんだと思う。だから、少し彼に時間をあげて欲しい」
「でも、刑事さんとは話したんでしょ?」
「警察はなるべく早く裏付けを取りたいからね」
「そうなんだ」
「だけど記憶って、けっこうあいまいなんだよ。事件の直後って、頭の中がぐちゃぐちゃになっているものなんだ。隆夫くんは今、そういう状況にいると私は思うな」
「へぇ~」
茉由は「意外だな〜」とでも言いたげに、八雲を見つめる。
「どうした?」
「なんでもない、続けて」
「後になって、『あの時はこう言ったけど、よく思い出したら違ってました』みたいなことも、あり得るってことだ」
「なるほどね。だから少し時間を置いて、話を聞いた方がいいってことね」
茉由は、念を押すように八雲に聞いた。
「あぁ、そういうことだ」
八雲は答えた。
その後、しばらく雑談をしていた二人だったが、病室の掛け時計を見ながら八雲が言う。
「さて、そろそろ時間だ。私はちょっと隆夫くんの様子を見てから帰るよ」
「私も一緒に行く」
そう言いながら茉由はカーディガンを羽織ったが、それを八雲が制した。
「キミは一緒に来ない方がいい。さっきの話が本当なら、ふたり一緒というのは隆夫くんを刺激するだけだ」
「そうか…… そうね、その通りだわ」
「キミは明日にでも、見舞いに行ってあげなさい」
「わかったわ、そうします。ごめんなさい」
「謝ることはない。わかってくれれば、それでいい」
「うん」
「じゃ、私は行くよ。ゆっくり眠ってね」
「はい。帰り、気をつけてね」
「ありがとう」
八雲はゆっくりと病室を後にした。
八雲は隆夫の病室の前にいた。引き戸越しに中の様子を伺うが、人が動いている気配がしない。少し考えてから、八雲は引き戸を少しだけ開けて病室を覗いた。ベッドで眠る隆夫の傍らでは、パイプ椅子に腰掛けた母親がベッドに突っ伏している。その背中が微かに上下を繰り返し、八雲に眠っていることを伝えていた。
「隆夫の容態が安定してきて、安心したんだな」そう思い、八雲は入室せず病室の引き戸を静かに閉めた。やはりというか、その病室の中に父親の姿はなかった。
「あの状態で眠っても疲れは取れないだろう…… だけど、眠らないよりはいいはずだ。何より母親が、自分も眠っていいと思えたことは本当によかった」
そんなことを考えながら、八雲は薄暗い正面玄関前のロビーを歩く。外に出て駐車場に向かいながら、もう一度病院を振り返る。新築されたばかりの巨大な白い建築物が、薄闇の中に浮かび上がっていた。
「確かに、両親が一緒になって心配してみたところで、隆夫の怪我が劇的な早さで治癒することなどないだろう。だが、息子が心配で一睡もできずにずっと付き添っている母親の心労を考えたら、一緒に寄り添い、支えながら我が子を見守ってあげてもバチは当たるまいに…… それもやってやれないくらい、会社の会議とは大切なものなのか?」
怒りに任せてそこまで考えてから、八雲は夜空を見上げ「ふぅ」と大きく息を吐く。
「オレにそれを言う資格はないか…… あの時このことに気付いていれば、昭夫と一緒に小百合まで失わずにすんだはずだ」十数年前の後悔が、また八雲の心を暗い闇の中に引きずり込んだ。
その考えを振り払うかのように頭を振り、八雲は車のドアを開けイグニッションを回す。隆夫の仕上げた車は、その夜も安定したアイドリングを繰り返した。「帰るか……」誰にということもなく、八雲はそう呟いてみた。
もう一度夜空を見上げた時、頬に冷たいものが触れる。夜空を埋め尽くした雨雲が、その懐に溜め込んだ雨粒を、少しずつ落とし始めていた。
「こっちも降り始めたか……」そう思いながら、八雲はタバコに火をつける。ポツポツと降り始めた雨は、すぐに本降りとなった。雨の中を滑るように駐車場を周回した八雲の車は、やがて闇の中に消えていった。
予期していなかった八雲の見舞いから一夜が過ぎた翌朝、朝食を済ませると茉由は隆夫の病室に行った。
隆夫はベッドを起こし、スプーンを持ってお粥を食べている。普通食になるには、もう少し時間がかかるようだ。
「あら、茉由ちゃん。おはよう」
「あ、おばさん。おはようございます」
「ずいぶん顔色が良くなったわね」
「おかげさまで、今日退院できることになりました」
「聞いてたわ、よかったわね。お父さんも喜んでいたでしょ」
「はい、もうすぐここに来ると思います」
「あ、そうそう、お茶を買ってなかったのよ、私」
そう言いながら、母親は小銭入れを持つと、
「ちょっと買い物してくるから、隆夫をお願いね」
そう、茉由の耳元で囁いた。
「はい」と茉由も小さく答えた。
病室を出て行く母親を見送りながら、茉由は気をつかってくれたことに感謝して頭を下げた。
「お前がやられなくて本当によかった。ゴメン、全部オレが悪かった」
食べかけのスプーンをトレイに置いて、隆夫は小さく頭を下げる。
「ううん、そんなことない。でも、隆夫が生きていて本当よかった」
「痛くない?」ベッドのそばに近づいて、茉由は隆夫に聞いた。
「あちこち痛い」少し笑顔になって、隆夫は答えた。
「今日、検査って聞いたけど……」
「うん、いろいろ調べるらしい」
「あ、ゴメン。食べながらでいいよ」
「うん、そうするよ。ゴメンな、少しずつしか食えないから時間かかってさ」
そう言いながら、隆夫はスプーンを持つと少しずつ食べ始めた。その痛々しい仕草を見て、茉由は涙が流れた。
「隆夫…… 本当にゴメンね、私のためにこんなになって……」
茉由は涙を拭くこともせず、ただ隆夫に頭を下げた。
第五章『病院』 ー完ー
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