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終活番外編-1

《 たぶん、言い訳です 》

 

「私の終活奮闘記-3」は、三月下旬に投稿する予定で書き進めていたのだった。しかし、急ぎの仕事が入ってしまい、ずるずると後回しになってしまった。

 安易に受けてしまったこの仕事が思った以上に手強く、相手方の担当者も未経験だったこともあって、なかなかスムーズに進まない。なにせ、打ち合わせができたのは業務開始日の前日夕方というハードなスケジュールのため、「問題が生じた場合は、その都度臨機応変に対応お願いします」という形で、打ち合わせというよりご挨拶程度で終わってしまったのだった。


 夜明け前に業務が開始される仕事に振り回され、そんな中で改善点を日々打ち合わせしなくてはならず、あっという間に一週間、二週間と時は流れ、やっと形ができた頃には私の体力は根こそぎ奪われ、とても終活どころの騒ぎではなくなっていたのだった。

 そんなドタバタ騒ぎの真っ最中の四月に、大好きだった義兄が往ってしまった。葬儀が土曜日となったので仕事に穴を開けずに済んだのだったが、金曜日の仕事が終わってから空港に直行、最終便にギリギリ間に合い伊丹空港へ飛んだ。

 やっと姉が待つ葬儀会館に着いた時、既に時計は二十二時を回っていた。

 

「それじゃ身動きが取れないだろう」と、私が心配になるほど、義兄は狭い木箱の中に寝そべっていた。それでも、その寝顔は思っていた以上に安らかそうだった。

 好きなこと、自分のしたいことをいつもしているような生き方の義兄だった。そして、いつも本気で私を叱ってくれる、私にとってたった一人の本当の兄のような存在だった。

「この人は、たぶん人類が消滅しても生きているだろうな……」と、私が思っていたほど、生命力の塊のような義兄だったのに、なぜ……

 

 義兄はこの数年、体調を崩して入退院を繰り返していた。姉は最悪の事態を想定して会社の整理を始めた矢先、義兄は入院先のベッドで危篤となった。

 コロナ騒動の最中、家族の面会も許されず病院のベッドで一人ぼっちだった義兄。本当は寂しがりやだった義兄は、真っ白なその空間でいったい何を考えていたのだろう。

「なぜ、生きているうちにもう一度会って、話をしておかなかったのか」今更ながら、悔いだけが残る。

 翌日、そんなやり切れない気持ちをおさえながら、私は葬儀に列席していたのだった。

 
 そして月が変わった五月、今度は伯母が逝ってしまった。伯母も体調を崩して入院していたのだった。従姉妹は、退院後は施設入所も考えたようだったが、伯母の残り時間はそんなに長く無いと判断し、自宅で自分が介護すると決めたとのことだった。

 退院の日、伯母は涙を流して自宅に帰れたことを喜んでいたという。

 それから僅か一週間後、家族に看取られながら眠るように伯母は旅立った。

 家族の面会も許されず、病院のベッドで危篤となった義兄と、自宅で家族に看取られながら最期を迎えた伯母……

 この二人が、この世で最後に見た風景とは、どんなものだったのだろう?

 そして、「私が見る最後の風景とは、いったいどこだろうか……」落ち込んだ心でそんなことを考えていたら、いつの間にかこんなにも時は流れていた。

 さて、いつ来るのかわからないその日のために、気を引き締めて《終活》を再開することにしよう。

 


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