【あめの物語 二人の秘密編 10】
工藤の過去を知ってしまった佐井は、堂々巡りを繰り返す無限ループのよう思考のトンネルから抜け出せなくなっていた。
工藤というバランサーを失ったことをむしろ喜んでいた佐井だったが、やがて工藤が好きだった直美との関係に深入りする自分が許せなく堪らなく嫌になり、そんな自分から逃げるように直美を捨て東京へ逃げた。
「そうだ、オレは最低な男だった。最低の選択肢を選んだんだ……」
その後の十数年の間、佐井は実家に帰ることはあっても、釜石に足を踏み入れることはなかった。
直美が結婚して北関東に住んでいるという話を耳にしたのは、佐井が東京で暮らしはじめて五年くらい経った頃だった。
出口の見えない思考のトンネルを彷徨っていた佐井は、ふと頬に冷たさを感じて我に帰る。
いつの間にか、弱い雨が降りだしていた。
「帰るか、ここにいてもどうにもならない……」
少し雨に濡れはじめたことによって、やっと違う思考ができた。
ポケットからタバコを取り出し、ライターで火をつける。
「考えて答えがでることじゃない。今はアイツが生きていることだけ願おう。いつかもう一度アイツに会うことがあれば、答えはその時アイツの口からでるはずだ」
大きくタバコの煙りを吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
無限ループのような思考からやっと抜けだした佐井は、もう一度気仙沼湾を見つめてから、ゆっくり車を動かした。
「慈雨に逢いたい……」
脳裏に甦る慈雨の笑顔だけが、また無限ループのような思考の滝に落ちる瀬戸際で、佐井を引き止めていた。
「私を思い出してくれたのね、よかった。もう大丈夫よ、私はあなたのそばにいます」
「オレは…… どうしようもない最低の男だった……」
「辛かったのね…… でも、もう大丈夫、そう大丈夫よ……」
そう囁きながら、項垂れている佐井を慈雨は自分の胸にそっと抱きしめた。
佐井の頬に涙が流れる。
「なんの涙なのか、工藤に対する後悔の涙? わからない……」
自分でも理由のわからない涙が、止まらずに佐井の頬を流れていた。
「『神に身を委ねる』とは、こういうことをいうのだろうか……」
そんなことを考えながら、女神のような慈雨の胸に、まるで子どものように佐井は身を委ねていた。
「ありがとう、もう大丈夫だ。シャワーを浴びてくるよ」
「なぜ、こんなにもあからさまに話してしまったのか?」そんな自分自身に、佐井はとても驚いていた。
熱いシャワーを浴びていると「私も入る」と、慈雨が浴室のドアを開けた。
「なぜわかった?」
「愛する男のことよ、わかるにきまっているわ」
そう言った慈雨だったが、実は母から啓示を受けていた。
母が亡くなるその日の朝のことだった。昏睡状態だった母が、まるで入院前のようにしっかりした意識を持ってベッドに座っていた。
「慈雨、ここに座りなさい」
とても穏やかで、やさしい母の声だった。
「とうとうきてしまった…… 今日が最後なんだ……」慈雨は直感でそう思った。丸椅子に腰を下ろしながら、涙が溢れてきた。
「今日まで本当にありがとう、私はこれからむこうの世界に行きます。あなたを一人残して行くのは心残りだけど、これも運命ね。これからもしっかり生きなさい」
病室の壁のはるか彼方を見ていたような目をゆっくり慈雨に移して、母は話を続けた。
「最後にひとつ教えてあげましょう、佐井さんのことよ。あなたが今度逢う時、彼は心がとても弱くなっています。癒してあげなさい、今の彼にそれができるのはあなただけです。いいですか『なにがあったのか』を、彼に話させるのです。あなたはそれをただ黙って聞いてあげなさい、それだけでいいのです。そして、やさしく抱きしめてあげなさい。あなたの愛で彼を包んであげなさい。あなたにはそれができます、わかりましたね」
母にそう言われた時、慈雨はもう涙が止まらなくなっていた。
「わかりましたお母さん、本当に今日までありがとうございました。とても感謝しています」
「さぁ、そろそろ御暇の時間のようね。楽しかったよ慈雨、こっちこそ本当にありがとね」
そう言ってから母は倒れるようにベッドに横たわり、そのまま息を引き取ったのだった。
「誰にも言うんじゃないぞ!」
「なにを?」
「なにを? って、だから……」
「さっきの話? 誰にも言わないわよ」
「うん、それもだけど……」
「うふふ、あなたが泣いてたことは、二人だけのヒ! ミ! ツ! よ」
「こいつ!」
「この母の啓示、今は内緒にしておこう。だって今日の私は小悪魔ですからね〜」慈雨はちょっぴり舌を出して微笑んだ。
二人は兄妹のように浴槽でじゃれあっていたが、先に根を上げたのは佐井だった。
「ダメだ、のぼせる」
浴室を出て、洗面台に水を流し顔を冷していた佐井の背中に慈雨が抱きついた。大きな鏡に全裸の二人が映し出される。
「水をかけろ! か……」
「なにそれ?」
「誰だったかなぁ~ 映画監督の言葉さ。『女の色気をだしたかったら、頭から水をぶっかけろ!』って言うのを聞いたことがあるんだよ」
鏡に映った慈雨は、濡れ髪から雫が滴る、ゾクッとするほど魔性に満ちた色香を纏っていた。
…続く…
Facebook公開日 1/21 2019
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