【 ストレイシープ 13 】
佳江は直人が横澤の検体をすり替えたとする仮説を冨田に話す。だが、冨田はその仮説を否定した。
落ち着いた、諭すような口調で冨田は話す。
「なぁ佳江、和哉の再検査の結果は、初めにお前が話した通りなんだ。どこにもあやしいところなんてない、これでいいんじゃないのか、これで和哉の心はリセットされて最初に戻った。和哉は救われたんじゃないか。それをなぜ今頃になって、ひっくり返すようなことをしなくちゃいけないんだ? 忘れたのか、何も知らない方が和哉は幸せに暮らせると、オレに言ったのはお前だぞ。オレにこのことを忘れてと言ったのはお前なんだぞ」
「私はただ、真実が知りたいだけなのよ」
「お前が知りたい真実って、いったいなんだ? なぜ今の結果が真実じゃないんだ? なぜこんなわけのわからない仮説を作って、それを証明しようとしてるんだ?」
「…………」
長い沈黙の時間が過ぎて、諦めたように佳江が言う。
「やっぱりダメね、私たち…… ものの考え方、価値観が違い過ぎるわ。今日はごめんなさい、私帰るわ」
「…………」
冨田は何も答えない。佳江は立ち上がり、ゆっくり出口に向かった。
佳江が店の外に出ると、弱い雨が降り始めていた。
「雨か……」と言ったきり、佳江は一人雨の中を歩き出す。佳江の頭の中では、繰り返し、繰り返し冨田の言葉が聞こえていた。
「寒いわ…… 寒い……」
春の雨は優しくなんかない。なめてかかった佳江は、大きなしっぺ返しを喰らう。雨はしだいに強くなり、佳江の体温を奪い、体力を消耗させた。
冷えきった体を自分の腕で抱きしめるようにして、尚も佳江は歩き続ける。どれ位の時間をかけ、どこをどう歩いたのか、自分でもわからないままに……
目の前にぼんやりと灯りが見え、佳江はその光に吸い寄せられるように近づいた。まるで小さな虫が光に向かって飛び込むように、佳江はコンビニの玄関で力尽きた。
人の気配や物音で佳江が目覚めると、そこは病院のベッドの上だった。
玄関で倒れた佳江に驚き、コンビニの店員が救急車を呼んだ。駆けつけた救急隊員が佳江の持ち物をチェックし、研究室の名札をハンドバッグの中から見つけた。
すぐ医学部に連絡が入り、佳江は大学病院に救急搬送されたのだ。
「先生、大丈夫ですか? だいぶうなされてましたけど、ご気分はどうですか?」
担当の若い看護師が、佳江の顔を覗き込んで聞く。
「ここどこ? 私…… どうして……」
「病院ですよ、大学病院。昨夜救急車で運ばれたの、覚えてないのですか?」
「救急車? 運ばれた? 昨夜?」
佳江は看護師の言葉を口の中で繰り返した。
「やっと目が覚めましたか、よかった」
そう言って病室に白衣の男が入ってくる。内科の医師「田宮」だ。
「驚きましたよ、本当に。びしょ濡れになって、救急搬送ですからね~」
「びしょ濡れって、え!」
佳江は慌てて自分の体を見た。患者衣に着替えられている。
「え! まさかあなたが?」
佳江は小太りの田宮を見て言った。
「そんなわけないでしょう、私が着替えさせました」
佳江よりはるかに年上と一目でわかる看護師が、田宮の後から顔だけ出して微笑んでいる。
「そうだったんですか、ご迷惑をおかけしました」
「今日はこのまま、ここで休んで下さいね。明日になったら少し検査しましょう。肺の音が気になります」
「去年、肺炎の一歩手前で入院しました。地元の◯◯病院です。そのせいかもしれません」
「わかりました、問い合わせてみましょう。後でいいですから、看護師に詳しくお話下さい」
「はい、お手数おかけします。よろしくお願いします」
「では、少し診察します」
そう言って、田宮は聴診器を佳江の胸と背中にあてた。
「よくなっているようですね、ではまた」
そう言いながら田宮は微笑んで、看護師と一緒に病室を出て行った。
「何か食べますか? 朝食がありますけど」
「朝食って、今何時ですか?」
「九時を少し過ぎていますよ」
「九時って……」そう呟きながら、佳江は看護師に言った。
「ごめんなさい…… ぜんぜん食欲がないの。もう少し休みます」
「わかりました。では何かあったら、ナースコールで呼んでください」
「ありがとう。お手数かけてすいません」
「では、失礼します」
若い看護師はそう言うと病室を出て行った。
一人になると、佳江はまた睡魔に襲われる。考えに考え抜いた仮説を冨田に覆され、佳江の脳は休息を求めていた。
再び目覚めた佳江を迎えたのは、優しい夕暮れの陽射しだった。
配膳の音が廊下に響き、夕食の香りが朝から眠り続けていた佳江に、空腹を思い出させる。病室の扉が開き、朝とは違う看護師が夕食を持って入ってきた。
「お目覚めですね、よかった。夕食を持ってきました」
「ありがとう、お腹が空きすぎて目が回りそう」
「食欲が出てきたのですね」
若い看護師は笑顔になって、佳江の前に夕食を置いた。
「あの…… 私のバッグは?」
夕食を食べながら、申し訳なさそうに佳江がたずねる。
「ハンドバッグとトートバッグですね、ナースセンターにあります。濡れていたのですが、だいぶ乾いてきました。お持ちしますか?」
「お願いします。それから私の服は……」
「クリーニングに出しました。夕方仕上がる予定ですので、まもなく届くと思います」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
「大事な先生ですから」
「そんな……」
「ゆっくり召し上がってください、私はバッグをとってきます」
そう言うと、看護師は病室を出て行った。
食事が済み、佳江はバッグの中からスマホを取り出す。だが、電池が切れた佳江のスマホは、電源ボタンを押しても反応しない。
「電池切れか……」ベッドから起き上がると、軽い目眩がした。少しベッドに腰掛けて休んでから、佳江はゆっくり立ち上がるとナースセンターに行き、忙しく動き回る看護師に向かって小窓から声をかける。
「すみません……」
「あ、先生。動いて大丈夫ですか?」
夕食を運んでくれた看護師が、佳江に気づいた。
「まだ少しくらくらするけど、もう大丈夫よ。スマホを充電したいの、お願いできるかしら?」
「はい」
看護師は佳江からスマホを受けとると、
「あ、先生のスマホ私と一緒ですね。充電器ありますからお貸しします」
と言って、引き出しから充電器を取り出す。
「お部屋で充電した方がいいですよね、一緒に行きましょう」
充電器と佳江のスマホを手に持つと、看護師は病室まで佳江を気遣いながら一緒に歩いた。
充電器をコンセントにつなぐと、スマホは充電中を知らせる赤いランプを点灯させる。
「五分くらいで立ち上げられると思います。フル充電には一時間以上かかるかな~ では、私はこれで」
「ありがとう、助かったわ」
「はい」こう笑顔で答える看護師を見て、佳江はその存在の大きさを感じた。
「白衣の天使」と称されることも多い看護師、彼女たちは病人にとって、医者よりはるかに存在感が大きいだろうと思ったのだ。
「きっと医者の薬や点滴より、彼女たちの笑顔の方が最高の治療薬になる」
そんなことを思った佳江は、病室を離れる看護師を見送りながら深く頭を下げた。
それから五分とかからずに、スマホは立ち上がる。確認すると、横澤と研究室から着信があった。弱っている時に小難しい電話は遠慮したいが、相手が職場では仕方ない。佳江は窓に寄りかかり研究室に連絡を入れる。
「先輩、大丈夫ですか? 救急車で運ばれて意識がないって聞いてましたけど……」
「もう大丈夫よ。明日、軽い検査があるらしいから、ついでに明日も休むって教授に話しておいて。それと、朝早く着信があったけど、用件わかる?」
「ちょっと待ってくださいね~」と言うと、
「今朝早く、高城先生にお電話した人、いますか?」と叫んでいる声が、スマホから聞こえてくる。
「声がデカい。受話器を押さえろ、受話器を!」と、佳江はスマホに向かって言った。
「今いる人は、誰も電話してないそうです」
「わかったわ。それじゃよろしく」
そう言うと、佳江は素っ気なく電話を切る。少し考えてから、佳江は教授に直接電話した。やはり後輩任せは心配だった。
「わかった。で、大丈夫なのか?」
「ご心配かけてすみません。もうだいぶいいのですが、少し検査した方がいいと担当医が言いますので……」
「そうか、確か「田宮」だったな、担当医は」
「はい、田宮先生です」
「わかった、私からも連絡しておく。今日は木曜だ、この際だから日曜までそこにいろ。どうもこの頃のお前は、一人にしておくとなにしでかすかわからん。病室で大人しくしてろ」
「そんな……」
「わかったな、まずは体を休めろ。体が元気になれば、ものの見方も変わるもんだ」
「はい…… でも」
「これは業務命令だ、わかったな高城。退院は月曜だ、そう田宮にも言っておく」
「わかりました……」
教授に釘を刺され、佳江は日曜までこの病室で過ごすことになった。
「やれやれ、とんだことになった……」
誰ともなしに文句を口走っていた佳江は、横澤からも着信があったことを思い出す。
「あ、和哉くん。私、佳江さんで〜す」
「おい、佳江。大丈夫なのか? 電話なんかしてて」
「何のこと? どうしたの?」
「どうしたの? じゃないだろう。お前のスマホがつながらないから、心配になって研究室に連絡したら『瀕死の重体で救急搬送された』って言われるし……」
「誰がそんな……」言いかけた佳江の頭に、後輩の顔が浮かぶ。
「あいつら、レポート十倍にしてやる!」
「レポートがなんだって?」
「何でもない、あいつら大袈裟なんだよね。私は大丈夫よ、ところで用事は何?」
「これだ、約束しただろう先生のことで。あの後、なかなか先生と連絡取れなくて、やっと捕まえたんだ。『来週だったら、時間があるから会いましょう』だってよ」
「本当に! ありがとう和哉くん。来週だったら私も退院してるからさ」
「大丈夫なのか? 病み上がりで」
「違うのよ、教授がね……」そう言って、佳江は教授とのやり取りを横澤に話しす。
「あはは、そういうことか! その教授の判断、ナイスだ!」
「何がナイスよ、人のことだと思って」
「ま、教授の言いつけを守ってゆっくりしろ」
「ハイハイ、わかりました。じゃ、来週よろしくね」
そう言って、佳江は電話を切った。
「いよいよ柴田さんに会える」佳江は武者震いに似た感情が沸き上がるのを感じた。
「でも、和哉くんが一緒じゃ無理だ。どうにかして彼と二人にならないと……」
佳江の脳みそは、また活発に回り始めた。
-つづく-
Facebook公開日 3/21 2021