【 あめの物語 松島編 4】
雨が強くなってきたので、散策を早めに切り上げ私たちは旅館に入った。
そんな私たちを迷惑がる様子もなく、品のいい仲居は別館の奥の間に案内した。
一通りの説明を済ませ、少し意味ありげな表情をして部屋を後にする仲居を追い、「これを」と私は小さなのし袋を手渡した。
「これはすみません、ありがとうございます」と言いながら小さくお辞儀をして、仲居はのし袋を胸元にしまった。
「気を使わせたみたいだな」戻りながら私が言うと、「そうみたいね、うふふ」と慈雨も気づいたようで、小さく笑った。
「本当に本名なのか『あめ』って?」
「そうよ、ウソだと思っていたの」
「そういう訳でもないが……」と、歯切れの悪い返事をしながら「慈雨か……」と呟いてみた。
「『恵みの雨』のことらしいわ。天へ感謝する気持ちが込められている言葉なので、当て字に使ったみたいよ」
「ステキじゃないか、仲居さんのいう通りだ」
「ありがとう、あなたに言われるとうれしい」
浴衣に着替えながら話す慈雨の言葉に少し違和感を覚えたが、車の中で地雷を踏んだ記憶が、それ以上の詮索を嫌った。
「どれ、ひとっ風呂入るか。夕食まではまだ時間がありそうだ」
「家族風呂があるみたいよ、一緒に入ろう」
「そりゃいい、もう入れるのかな」
「聞いてみるね」
フロントに電話していた慈雨が「大丈夫だって」という。
「じゃ行こう」そう言いながら、私も浴衣に着替えた。
長い廊下を歩きながら慈雨が聞いてきた。
「今日なんて言ってお休みしたの?」
「正直に言ったよ『恋人と不倫旅行に行く』ってね」
「本当に!」
「あぁ本当だ。さすがに休暇届には『都合により』って書いてあるけどね。部署の連中は誰も本気にしてないみたいだが、理由はこれが一番いいのさ。万が一知った人間に会ったとしても、ちゃんと『不倫旅行に行く』と言ってあるんだ、なんの問題もない。多少は驚くだろうが、ウソは言ってない訳だから言い訳もまったく必要ないだろう」
「あはは、なるほどね。確かに正しい理由を言ってあるんだもの、言い訳なんかいらないわね。なんだかそれ、すごくいいわ。あなたのような人初めてよ」
「誉められているんだよね」
「もちろんよ」
私たちは笑いながら廊下を歩いていた。
のんびり檜風呂に浸かり、さっぱりして部屋に戻る。普通なら「とりあえずビール」というところなのだろうが、 私も慈雨もビールは飲まない。
「ワイン持ってきたんだ」慈雨がうれしそうにカバンからワインを取り出してから、「冷蔵庫に入れておけばよかった、失敗」と舌をだす。
「氷を貰おう」そう言って私はフロントに電話をした。
「おいおい ペースが早いな、夕食が食べられなくなるぞ」
二杯目のワインを飲み干した慈雨に私は言った。
風呂上がりの上気した肌が、アルコールで朱色に染まってくる。浴室で見た慈雨の透き通るような白い肌が脳裏に浮かんだ。
「こんな絹のような肌を持った女は初めてだ」
そんなことを考えていると、慈雨が観察するように顔を近づけ「エッチ!」と言う。
「なんだ?」
「わかるのよ私。今、私の裸思い出していたでしょう」
「なんでわかったんだ」
「だってあなたって、そういう顔の時はいつもエッチなこと考えているんだもの」
「こりゃ参ったな、当たりだよ。 今、風呂場でのお前を思い出していた」
「ほら」と言いながら、慈雨が私の目を覗き込む。私はそのまま慈雨を抱きしめた。
円通院での慈雨の言葉が、尾を引いて脳裏にこだまする。
「…… 本当は私、とっても本気なのよ」そう言い切った慈雨の、本気の眼差しが突き刺さっていた。
その瞳が今は閉じられている。そっと重ねた唇からは微かにワインの味がした。
慈雨の肌の温もりが、胸の柔らかさが、それらを誇示するように浴衣を通して伝わってくる。
その胸に直接触れてみる。
「ダメ……」と小さく慈雨は言ったきり拒みはしない。華奢な慈雨の身体を抱きしめたまま押し倒した。
「失礼します」という声が扉から聞こえ、慈雨は私から離れた。
少しの間をおいて、仲居は扉を開けた。
この絶妙な間に助けられ、私たちはテーブルを挟んで座ることができた。
「本当に食べきれるんだろうか?」そんなことを思うほど、豪華な料理を仲居がテーブルに並べている。
鍋と釜飯に火をつけると「いかがですか?」と徳利を差し出す。
「ありがとう、頂きます」と私は盃を差し出した。
「奥様もいかがですか?」
慈雨も盃を差し出し、注がれた酒を飲み干す。
「美味しい!」
慈雨の言葉に気をよくしたのだろう。仲居はひとしきり地酒の講釈を述べてから、
「では、邪魔な仲居は帰りますね。お済みになりましたらお知らせください」
と言い残して部屋を出ていった。
「食べきれるかしら?」慈雨も同じことを思っていたらしい。
夕食を済ませ、今度は男女別の大浴場にいく。
先に部屋に戻った私は、残った酒を飲みながらテレビを見ていた。
「面白い?」帰ってきた慈雨が聞く。
「暇だっただけだよ」と答える。
「そうなんだ……」慈雨はそういいながら、濡れ髪をタオルで拭く。
奥の間でスキンケアをしていた慈雨が電気を消した。
こちらにくるだろうと思っていると、「ねぇ…… 見て……」と声がする。
その声に視線を合わせた私は言葉を失った。
「今日の私を覚えていて。忘れないようにしっかり見て、そして記憶に焼き付けて欲しいの」
そこには浴衣を肩から下ろした、全裸の慈雨が立っていた。
「キレイだ……」私はそれだけ言うのがやっとだった。
見馴れているはずなのに、今夜の慈雨はなぜかまったく違う女に見えた。そんな女神のような全裸の慈雨に、私はただ引き寄せられるように近づいていった。
その夜、慈雨は今まで私に見せたことのない反応をした。「いつもと違うシチュエーションのためか?」とも思ったが、どうも違うようだ。
内からこみ上げてくるもの、必死に心に封じ込めていたもの、そんな得体の知れないなにかを、すべて吐き出すような激しさがあった。
…つづく…
Facebook公開日 6/6 2017
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?