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【道行き7-1】

【第七章『佳奈』-1】

 隆夫たかおが目覚めた翌日、茉由まゆは隆夫の病室を訪ねた。朝食を食べていた隆夫の痛々いたいたしい姿を見て、茉由のほほに涙が流れた。その流れる涙をくこともせずに、茉由はただ隆夫に頭を下げていた。

「隆夫…… 本当にゴメンね、私のためにこんなになって……」

「なに泣いてる、こんなのかすり傷だ。心配するな、すぐ退院できる」

「だって……」

「大丈夫だからもう泣くな。お袋が帰ってきたら、オレが泣かせたと怒られる」

「でも……」

「でももヘチマもない、お願いだから泣くな」

「うん」

 茉由は涙をぬぐいながら、少しだけ笑った。隆夫も笑ったが、直ぐに「イタタ……」と、眉をひそめる。

 少しの沈黙があって、隆夫が口を開く。

昌夫まさおさんが来てくれた」

「うん。私のところにもお見舞い持ってきた」

「今どき、果物の詰め合わせってさ~ どうよ、あの人のセンス」

「だよね~ っていうか、あの人らしいかも」

 茉由は笑いながら答えた。

 事件前のような笑顔で話していた隆夫だったが、その笑顔はやがて消え、思い詰めたような顔に変わる。黙り込んだままで、包帯だらけの腕を見つめている。そんな隆夫の横顔を見つめていた茉由だったが、やがて隆夫から視線を外すと頭を下げたままで隆夫の言葉を待った。

「ごめん、もう帰ってくれないか。オレ、まだ頭がぐちゃぐちゃで、ぜんぜん整理がつかないんだ」

「わかった……」

 隆夫に返す言葉が見つからず、茉由はとても長い時間をようして、やっと絞り出すように答えた。椅子から立ち上がり、扉に向かって歩きだした茉由を隆夫が呼び止める。

「退院できてよかったな。お前が無事だったことが、本当にうれしい」

「ありがとう。なんだか私だけ退院するの、隆夫に悪い気がして……」

「なんでだ? 元気になったんだ、退院するのが当たり前だろう」

「でも……」

「茉由らしくないぞ、その『でも……』は」

「エヘヘ」と小さく笑ってから、「私、お見舞いに来てもいいかな」と、茉由は遠慮がちに言った。

「あぁ、いいよ。来週になれば、だいぶ回復して動けるようになると思う」隆夫はそう答え「頭の方もね」と付け加える。

 二人の話を立ち聞きしていた母親は、足音をたてないように売店の方に引き返し茉由が病室を出るのを待った。「買い物から今帰ってきた」という風を装ふうをよそおうためだ。

「じゃ、早く元気になってね」

 病室の引き戸に手を掛けたまま、振り返って茉由は言った。

「わかった。今日はありがとう、うれしかった」

「うん」とうなずいて、茉由は引き戸を開けた。

 茉由が廊下に出ると、買い物帰りをよそおった母親が歩いてきた。

「あら、もう帰るの?」

「はい。退院の準備もあるし、もうすぐ父も来ますから」

「そうよね。じゃ、またね」

「はい。私、お見舞いに来ます」

「ありがとう。ぜひ来てね、あの子も喜ぶから」

「はい、必ず来ます」

「待っているわ」

 そんな会話をして茉由は自分の病室に戻っていった。母親はそんな茉由の後ろ姿を見送ってから病室に入る。

「茉由ちゃん、いい子よね。あんたのお嫁さんに来てくれないかな~」

「なに言ってんだ、急に」

「あんたも、まんざらでもないんだろう。照れてないで聞いてみたら」

「うるさい!」

 母親に自分の心を見透みすかされたようで、つい隆夫は大きな声をだした。

 隆夫と茉由が巻き込まれた傷害事件しょうがいじけんから二週間が過ぎた。隆夫から言われたことを守って見舞いを控えていた茉由だったが、この一週間は足繁あししげく隆夫の病室に通っている。隆夫の回復力はすさまじく、外見上の傷はすでに完治していた。骨折の痛みもほとんどおさまった様子で、日常生活なら支障がない程度にまで回復している。

「退院が早まりそうなのよ」と母親がうれしそうに、見舞いにきた茉由を捕まえて話す。

「重いものを持ったりはまだ無理だけどな。退院してもしばらくは、リハビリで通院生活だよ」

 隆夫が母親の言葉不足をおぎなうように言う。

「それでも、病院のベットよりはずっといいわよ。ね、茉由ちゃん」

「そりゃそうだ。こんなとこで一日中暇を持て余すなんて、頼まれてもしたくない」

「また、そんなこと言って」

「うふふ」

 たしなめる母親と不貞腐ふてくされる息子を観察しながら、茉由は小さく笑った。

「そうだ茉由、明日でいいからこの本買ってきてくれ」

 そういうと、隆夫は本の名前が書いてあるメモを茉由に渡した。


 隆夫から頼まれた本を探すため、茉由は病院の帰りに本屋に立ち寄った。

「本ならネットですぐ買えるくせに…… 大丈夫ですよ隆夫ちゃん、無理矢理、用事作らなくても。うふふ」

 推理小説の棚を物色しながら、茉由はつい笑いがもれる。どうやら隆夫の姑息な策こそくなさくなど、茉由はお見通しのようだ。

「推理小説なんて読んだっけ?」

女性の声がすぐ後ろで聞こえ、驚いた茉由が振り返る。

佳奈かなさん」

「久しぶりだね、元気だった」

「うん……」

「なによ、なにかあったの」

「うん、ちょっとね」

 佳奈は美容師だ。茉由は訳あって、いつも髪は佳奈に切ってもらっている。

 佳奈と初めて会った時、茉由はまだ高校生だった。友人から紹介され、初めて訪れたその店で茉由の髪を切ったのが佳奈だった。

 佳奈の勤めていた美容室ではヘアドネーションに協力していた。つやのある長い黒髪がトレードマークだった茉由に、ヘアドネーションのことを教えたのも佳奈だった。毛先を整えるだけのつもりだった茉由に、その場でヘアドネーションに協力することを決めさせ、バッサリとショートボブにさせた説得力は見事だった。

 翌日、茉由が学校に行くとクラスメートが驚きの目で集り、質問攻めにあったのは言うまでもない。その後茉由は、三年から四年周期で髪を伸ばしては佳奈に切ってもらう、ということを繰り返している。もちろん理由はヘアドネーションに協力するためだ。

 知っている人が多いとは思うのだが、ここで簡単にヘアドネーションについて書いておこう。

 ヘアドネーション(Hair Donation)とは、病気(小児がんや白血病など)や不慮の事故などで髪の毛を失った子どもたちに、ウィッグを無償で提供するボランティア活動のことだ。この医療用ウィッグは100%人毛でできている。したがって、茉由のように自身の髪を提供するボランティアと、この活動に協力する美容室及び美容師が必要不可欠なのだ。

 1990年代のアメリカで始まった活動だが、日本では2009年になって初めてヘアドネーション団体としてNPO法人が設立された。現在はこの団体を含め四団体が活動しているようだ。

 茉由はよく知人に聞かれることがある。

「ロングヘアをキープするのって大変でしょう。洗うのは大変、乾かすのは超大変、傷まないように維持するのは超が二個も三個も続くほど大変なはずよ。何年もそんな大変な思いをしてまで、ヘアドネーションに協力する理由ってなんなの?」

「私はただ、燃えるゴミにするのがイヤなだけよ」

茉由は笑顔でいつもそう答える。そしていつも思い出す。

  ーー続くーー



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