【 あめの物語 】
文中の「私」は某自動車関連会社の部長、二年前ここ仙台に転勤してきました。「あめ(慈雨)」と名乗っている女性は、まったく素性のわからない和服の女性。この二人の織り成す大人の物語です。
【あめの物語 春】
「化粧する君の その背中がとても 小さく見えて しかたないから……」
なにげなく鼻歌を歌っていると「珍しいわね、女の子の歌唄うなんて」と、あめが化粧しながら話しかけてきた。
女の子の歌? そうかイルカも歌っていたんだった。
「作ったのは男だよ、[伊勢正三]って知らない?」
「私は歌っていた[イルカ]しか知らないわよ」
そうか、オレでも現役で聴いてたわけじゃない。十五歳年下のあめが知らないのは当たり前か。
「私の歌みたいよね」
「そうだね」
「でも、詞が悲しすぎるわ、あんまり好きじゃない……」
「そうかもしれないね」
鏡台から振り返って、あめが言った。
「よかった」
「なにが?」
「あなたが転勤にならなくて、転勤だったらどうしようと思っていたのよ」
「あはは! 君は大丈夫だろう。それとも、転勤になったらついてきたかい?」
「わからないわ。だから困っていたのよ」
バスタオルを腰に巻いてベッドに座っていると、
「この雨が『花起こし』になるといいんだけど……」
そう呟きながら、 あめが横に座った。
「一緒に行く、と言ったら迷惑でしょ」
「そんなことはないよ」
じっと私の目を見つめるあめに、心の中を見透かされたようでドキッとした。
「その着物、ステキだね。よく似合ってるよ」
「覚えてる? 初めて会ったときにもこれを着ていたの」
そうだった。淡いピンクの着物が桜の花の中に溶け込んで、ビックリするほどあめはキレイだった。
「桜の精がいるのなら、きっとこんな女だろう」と、その時思った。あれからもう一年がすぎるのか。
「私ね、身体を重ねた時…… 心まで重なったと思えたの、あなたが初めてなの」
心臓がドキドキする。真っ直ぐなあめの目を、見つめ返すことができない。
「夜景を見に行こう、雨は止んだようだ」
答える言葉を失って、私はそそくさと服を着た。
仙台の郊外には高台の団地が多い。通行の邪魔にならない場所を選んで車を停めた。
「どうしてかなぁ…… 夜景を見てると落ち着いてくるの」
「そうなんだ」
あめが開けた助手席の窓から、湿った空気が車内に入り込んできた。
「なぁ、聞いていいかい」
「なに?」
あめは夜景を見たままだった。
「もしオレと別れることになったら、たまには思い出してくれるのかい?」
ちょっと意地悪な質問だな、と思った。
「う~ん…… たぶん思い出さないわ」
あっけにとられた。もう少し色よい返事がくると期待していたのだ。
「どうしてそんなこと聞くの?」
あめは夜景から目を離して私の目を見つめた。私はその目から逃げるように車を降り、タバコに火をつけた。
「バカなことを聞いたもんだ。これじゃガキと一緒じゃないか」
そう思っていると、あめが車から降りてきた。
「『思い出す』ってことは…… 『忘れる』ってことよ。私はたとえ別れても、きっとあなたを忘れることはないわ」
ハッとした瞬間、地面にタバコが落ちた。
「オレはこいつと別れられないかもしれない……」
私は強くあめを抱きしめた。
「イタい」小さくあめが言った。
「ゴメン」と私は耳元で呟いた。
雨上がりの湿った空気が、二人をやさしく包んで夜は更けていった。
ー 完 ー
Facebook公開日 3/31 2016