【道行き3-6】
【第三章 『写真』-6】
奥新川駅の撮影が終わり、二人は八雲のアパートに帰ってきた。明日も一緒に行けるものと思っていた茉由は出発の時間を聞こうとしたが、八雲の返事は茉由の予想を裏切る意外なものだった。
「関わらない方がいいって、そんな…… 邪魔だってことなの?」
「邪魔とか、そういう意味じゃなくて」
「じゃ、どういう意味ですか?」
「ちょっと待って、大きな声を出さないで」
「え!」
ここが八雲のアパートの駐車場だったことを、茉由はすっかり忘れていた。
「とにかく、撮影は私の仕事なんだよ。私は仕事をするために、明日また奥新川に行くの。わかるよね」
「だから撮影の邪魔はしません。さっき『楽しかった』って昌夫さんも言ったじゃない」
その時一階の玄関が開いた。ちょっと危なそうな男性が顔だけ扉から出して二人に言う。
「うるさいぞ! 痴話喧嘩ならよそでやれ!」
「すみませんでした」
八雲はその男性にすぐ謝った。
「ということ。わかった?」
「ごめんなさい」
小さな声で八雲が言うと、茉由も小さな声になり謝った。
「私…… 本当にごめんなさい。もう帰ります」
「夜だから気をつけて」
茉由は原チャを押して駐車場を出て行った。茉由の姿が見えなくなるまで見送り、八雲は機材を持って階段を上る。遠くで原チャのエンジン音が聞こえた気がして玄関で振り返ったが、「気のせいか……」というように頭を振り部屋に入った。
この二人のやりとりを、向かいのアパートの陰でじっと息を殺し見つめていた人影がいたことなど、八雲は全く気づいていなかった。もちろん、それは茉由も同じだ。
翌朝といっても、まだ空を星たちが占拠している時刻の国道を、八雲は一人西に向かって車を走らせた。目的地は昨日と同じ奥新川である。
今回の仕事は、昔世話になった東京の編集者から「奥新川駅周辺の全容が欲しい」という依頼があったためだ。
奥新川駅は、仙台市と山形市を結ぶJR仙山線の駅だ。JR仙山線は日本初の交流電化が行われたことで知られているが、途中で他の市町村を通ることなく県庁所在地同士を直接結び、その両都市のみで完結しているJR唯一の路線でもある。
江戸時代からここには銅鉱山があった。大正時代になるとその鉱山が再開発され、戸数二百戸、人口六百人の新川集落が形成された。当時は木材輸送のために森林鉄道も開業していたが、仙台から延伸してきた仙山東線と、山形から延伸してきた仙山西線が接続され仙山線として全通した時に、宮城県の最も西に位置する駅として、奥新川駅は開業した。
しかし林業の衰退とともに森林鉄道は廃止され、鉱山も閉山すると、奥新川は鉄道関係者の集落となった。その後も人口は減少し続け、利用者の激減した駅は無人化された。2023年現在では、利用者数が少ないとして一部の列車は通過駅となっている。つまり、文字通りの秘境駅なのだ。
朝日が当たる駅舎やその周辺施設などを撮影した八雲は、駅を離れ手つかずの清流「北沢川」と「南沢川」、それに架かる橋や今は使われていない吊り橋なども撮影した。この北沢川と南沢川はここで合流して「新川」となるようだ。この新川は作並のニッカウヰスキー仙台工場付近で広瀬川と合流する。
撮影が終わり午前中に奥新川を後にした八雲は、作並温泉に立ち寄った。日帰り温泉に浸かり昼飯を食べ、一時間ほど昼寝をしてから西へと車を走らせる。
今回の八雲の旅は、「日本海を北上する」というだけだ。狙いはただひとつ「水平線に沈む夕陽を撮る!」天気予報とにらめっこしながら、山形県、秋田県、そして青森県の夕陽を撮りまくる。宿泊地も決めていないまるで「放浪の旅」だが、八雲の旅はいつもこんな感じだ。宿は「眠れればどこでもいい」と考えていたし、今回は車があるので、宿がなければ車中泊で乗りきるつもりだった。
八雲が山形を真横に横切って、日本海に面した庄内地方に向かっている時、仙台に残された茉由は手がつけられないほど荒れていた。
「残された」という表現は正しくないか。八雲は始めから一人旅の予定だった。しかし急ぎの仕事が入ってしまい旅の前にそれを片づけた。その仕事というのが「奥新川の撮影」だ。
「そこに偶然、茉由が割り込んできた」というのが、八雲の考えだった。
「奥新川の撮影そのものは楽な仕事だったから、昨日は茉由を連れて行ったのだが今日は違う。その後すぐ旅立つのだ、今日も撮影に同行させ、その旅にまで茉由を連れ回すわけにはいくまい、相手は未婚女性なのだ。撮影が終わった後で茉由を送り、その後に旅に出る方法も確かにあるが、それはっちょっと面倒だ。だからといって『ここから電車で帰れ』とも言えないだろう」
という、誠に正しい判断をしたつもりの八雲だったが、茉由の考えは違っていた。
「昨日連れて行ったのだから、今日だって一緒に行ってもいいじゃない。それを頭ごなしに『仕事だから』と言って、私を拒否することはないでしょう。それに『あまり私に関わるな』って、どういう意味よ」とだいぶお怒りのようだ。
「出戻りの女には興味ない、とでも言うつもりか!」という具合に、ますますエスカレートしているのが、少々心配の種ではある。そもそもこの段階では、茉由の出戻りを八雲は知る由もないのだ。
「下月さんは、とても魅力的な女性だ。あのようにステキな女性が私のような中年男と、万が一にも間違いがあっては許されないのだ。だから、はっきりと拒否することが最善の策なのだ」と、八雲は心の奥にある自分の深層心理を正しく認識しているつもりのようだが、そのさらに奥にあるものを認識していない。
つまり、すでに八雲は茉由に心惹かれていたのである。そうでないものを被写体にし、シャッターを切るカメラマンなどいないのだ。
レンズの先にあるものが、キレイな花やかわいい子猫、虹のかかった大空や大草原の小さな家、そしてステキな女性や幼い子どもなどと被写体が変化することはあっても、心が惹かれた瞬間にシャッターを切るのはカメラマンの習性だ。つまりどのような状況であれ、その時「八雲が茉由に心惹かれた」ことは確かなのだ。
いろいろと寄り道をして八雲が庄内地方に到着したのは夕方に近い時間だったが、予約なしでも運良く「湯野浜温泉」に泊まることができた。週始めのため比較的宿は空いていたのだろう。
山形県は温泉の宝庫だ、こんな海岸線に近いところにまで温泉宿がある。「日本海に夕陽が沈んでいく絶景が露天風呂から見える」という宿に泊まることになった八雲だったが、気分は優れない。それもそのはず、空一面を厚い雨雲が覆い尽くし、雨こそ降ってはいないが太陽はその雲の上にある。
「今日は無理か……」そんな独り言を呟きながら、八雲はパソコンの電源を入れた。メモリーカードから奥新川の写真を取り込み、専用ファイルにまとめる。「好きな物を使って下さい」という短いメッセージを付け加えて依頼主に送信し、最後の仕事は修了した。
そのファイルに入れなかった写真がパソコン上に残された。それは「茉由」を撮ったものだった。画面で一枚ずつめくっていく。
「半狂乱になって怒った顔も、撮っておけばよかったな……」そう考え一人で笑ってしまった。その写真をファイルにまとめ「下月さん」という名前を付けて保存した。
朝が早かった八雲は、夕飯を済ませると温泉に入り早々と布団にもぐり込んだ。
第三章『写真』 ー完ー