【道行き4-1】
【第四章『昇の店』-1】
「喫茶 姫の館」は、昇夫婦が長年の夢を叶える形で始めたものだ。一人娘の茉由が結婚して家を出たのと、昇の早期退職が開業のきっかけだった。
昇の勤めていた会社は、東京に本社がある中堅の食品卸販売だが、業績不振を理由に会社は早期退職者を募っていた。五十歳前半で部長職だった昇は、この制度に乗る形での退職を考え始めていた。
「ちょっと話があるんだが、いいかな?」
「何、あらたまって怖いわね。どうしたの?」
朝食が済んだ日曜の朝、昇は妻の郁恵に話しを切り出した。
夫婦には夢があった。それは昇の退職後に二人で小さな店を出すことだった。早期退職者にはかなりの額の退職金が上乗せになる。ちょっと早いが、これを使って自宅を改装し、二人の夢だった店を始めたい。昇の話はそんな内容だった。
「茉由も結婚したし、これからは二人で暮らしていくことになる。少し家が手狭になっても窮屈に感じることもないだろう。退職金は最低でも五割は上乗せになるという。このチャンスを逃す手はないと私は思うんだ。お前はどう思う?」
突然切り出された話だったが、郁恵は二つ返事で答えた。
「いいと思うわ。私たち二人の夢だもん、思い切ってやりましょうよ」
この即断即決が郁恵の良さだったし、昇もこの思い切りの良さが好きだった。しかし今回の場合は、これから先の夫婦の生活全般に関わる重大なことだ。言い出したのはいいが、「本当にやっていけるか?」という不安を消せずにいた昇の口から、ついこんな言葉が出てしまう。
「おいおい、そんなに簡単に決めていいのか?」
「だって今まで二人で考えてきたことでしょ。十年以上も前から二人で話し合ってきた夢じゃない、迷う理由なんてどこにもないわ」
そう郁恵に言われ、なぜか昇の心から不安の種がふっと消えた。
「そうだな、迷うことなんてないな。わかった、週明けに支店長と話をする」
「そうして、退職金の額がはっきりしたら動き始めましょう。私、なんだかワクワクしてきたわ」
妻の生き生きとした顔を見て、昇は腹を決めた。
週明けの月曜日、昇は支店長を昼飯に誘い出し早期退職の話を切り出した。そんな昇に、苦虫を噛み潰したような顔になって支店長は言う。
「おい、何を勘違いしている。これはお前を退職させるための制度じゃないぞ」
支店長は本気で止めにきている。それに対し昇は冷静に、そして丁寧に自分たち夫婦の夢、妻の了承も得ていることなどを話した。
「困り果てた」とでも言いたげな表情で、支店長は昇を見ている。
「私のような者を評価して頂き、本当にありがたく思っています。でも、なぜかこのチャンスを逃すと、とても後悔しそうでならないのです。なんとか支店長のお力添えを頂きたく、お願いいたします」
昇の決心の固さに押し切られるように、「わかった、役員に話してみる」と支店長が折れる形で話しはついた。
その数日後の夜、昇は支店長と二人で飲みに出た。
「しかし、今回は参ったよ。まさかお前の辞表を受け取るとは、夢にも思わなかったぞ。自分の後を任せる人間はお前だけと思っていたが、残念だよ」
「そう言って頂けるだけで、私はサラリーマン人生に区切りがつけられます。本当に支店長にはお世話になりました」
「店のオープンが決まったら連絡よこせ、花束の一つでも飾らせてもらおう」
「ありがとうございます。ぜひ、オープンの日はお越しください。妻と二人、とびきりの笑顔でお迎えします」
「わかった」
そんな会話をしながら、二人は酒を酌み交わした。帰りのタクシーの中で、支店長が呟くように言う。
「辞めて欲しい奴は辞めずに、辞められると困る奴が辞表を持ってくる。早期退職者を募ると必ずこの矛盾が出る。困ったもんだ」
「すいません……」
昇は恐縮しきった顔で答えた。
昇の辞表は正式に受理され、その二か月後には円満退職となった。
その後、この夫婦は大忙しの日々を送ることになる。
店舗の内装などは郁恵の担当だった。フリーでインテリア・コーディネートをしている郁恵は、毎日のように工務店の担当者、そして内装業者と打ち合わせをしている。
昇の担当は必要となる許可申請、それから資金管理だった。昇も役所や銀行との打ち合わせで忙しくしていたが、二人は充実した日々を過ごしていた。茉由も時間を作っては実家に通い、時には泊まり込んで夫婦の手助けをした。
大きなトラブルなく開店準備は順調に進み、夫婦の夢だった「喫茶・姫の館」は三か月後にオープンした。オープン初日、約束通り支店長からは大きな花束が届き、その支店長以下、会社の関係者たちと昇の友人、それに郁恵の友人、茉由夫婦とその友人などが集まり、盛大なオープンパーティが開かれた。
軽食とコーヒー・紅茶がメインメニューの小さなこの店は、静かな住宅地の中で目立たぬようにひっそりと営業していた。その隠れ家的な雰囲気と、飾り気のないシンプルで上品なインテリア、それに郁恵が選び抜いた小物販売が魅力となり、口コミで主婦やOL・大学生など女性客を中心に利用客は順調に伸びていた。
だが、開店から僅か一年後に妻の郁恵が病に倒れる。郁恵はクモ膜下出血で入院、意識が戻らず昇も病院に通う日々となった。三週間後、郁恵は意識が戻らないまま亡くなり、その後を追うように昇は店を閉めた。
昇の落胆ぶりは相当なものだったが、葬儀の弔問客にそれは伝わらなかっただろう。中堅の会社ではあったが、部長職として多くの修羅場を経験してきた昇である。その場で自分の取るべき態度はわかっていた。
だが、娘の茉由の目はごまかせない。そんな昇のことが心配で、茉由は度々実家に帰っていた。
「お父さん、大丈夫?」という茉由の声掛けに、「あぁ…… 大丈夫だ」と答える昇は、まるで魂が抜き取られたかのように放心状態だった。日増しにやせ衰え、一気に年老いてみえる昇を見かねた茉由は、自分たち夫婦との同居を考えるほどだった。
しかし、安易に同居を切り出せるほど、茉由の家庭環境は単純ではなかった。当時の茉由は、夫の稔との間に多くのトラブルを抱えており、夫婦仲は崩壊寸前という状況だったのだ。そんな中で父親との同居など言い出せるわけがない。
「だからといって、こんな父親を一人にしてはおけない」という茉由の思いは日増しに大きくなり、「稔との結婚生活に区切りをつける」という決断を茉由が考え始めると、さらに夫婦仲は険悪なものとなった。
まもなく、茉由は稔に「三下り半」を突きつけ、一時的に実家に戻ることになる。しかし、それからひと月もしないうちに、稔の母親から「離婚届」が送られてきた。
ーー続くーー
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