【道行き2-5】
【第二章『車』-5】
八雲にマニュアル車を用意し、誇らしげにしている隆夫とは対照的に、八雲は「まいったな……」という顔をしていた。
そんな八雲をからかうように、茉由が聞く。
「あれ、マニュアルは苦手ですか?」
「いや、苦手っていうか…… もう十年以上オートマしか乗ってないからさ。クラッチの踏み方忘れたよ」
「何言ってるんですか、昌夫さん。そうだ、いい機会だから茉由も一緒に乗せてもらえよ。きっといい勉強になるよ」
隆夫のこの提案に昌夫はギクリとする。
「な、何を言ってるんですか! 脅かさないでください」
大袈裟すぎると思える八雲の慌てようにイタズラ心を刺激された茉由は、この中年男をもう少しイジメたくなった。
「この車、私が慣らし運転したんです。どんな人が乗るのかなぁ~ って考えながら走ってました。ぜひ、ご教授お願いします」
「隆夫くん……」
泣きが入るとは、まさにこういう時を言うのだろう。八雲はすがるような目で隆夫を見た。
「いいじゃないですか、ちょこっとその辺走って見せてやってくださいよ」
なぜ人は「イヤだ」と泣きが入った人を、さらにイジメて楽しむのだろう?
たぶん、明確な理由などないと思う。あえて理由を述べるなら、これは人間の本能かも知れない。
八雲は「人見知り」であり「あがり症」の性格だった。特に女性に対してその傾向は強く出る。スレンダーでキュート、とても魅力的な体型をしている茉由に、八雲は気後れしてしまったのだ。
出ているところはしっかり出ていて、ウエストはくびれている。よく男性同士の会話に出てくる「ボン・キュッ・ボン」のことを、俗に「グラマー体型」という。
対して茉由は、細身で無意味な出っぱりが少ないモデルのような体型であり、「グラマー」とは対局の存在「スレンダー」だった。
つまり、西洋人の女性に多いといわれる「グラマー」な体型ではなく、しいていえば東洋人的な美女なのだ。八雲はこの「東洋人的な美女」にめっきり弱い。そのため、茉由に対して「おどおどする癖」が出てしまったのだ。
「うふふ、さぁ行きましょ! 昌夫先生」
だめ押しするように、茉由は助手席でシートベルトを締めながら言った。もはや「Sっ子」の性格丸出しである。
「どうなっても知らないよ」
そう呟きながら、八雲もシートベルトを締めた。
ギアの位置を確かめるように、八雲がシフトレバーを前後左右に動かしている。
「本当は他人の運転が苦手なんだけど……」
助手席に座っている自分の体が少しずつ緊張し始めていることを感じながら、茉由はそんなことを思った。
一速にギアが入り、左足がゆっくりクラッチをつなぐ。アクセルはアイドリングのままだ。
「プス」という表現が、もっとも近いだろう。車は動き出すことなくその場でエンジンを止めた。
エンストしたのである。
「あれ、おかしいな……」
八雲は焦りながらエンジンキーを回す。何事もなかったようにエンジンは再スタートした。全く同じ要領で八雲はクラッチをつなぐ。
「プス」またもやエンストである。
「あの…… サイドブレーキ」
戸惑いながら、茉由は指摘した。
「あ、サイドブレーキね。そうだった、これを外さないと……」
誰の目にもわかるほど焦った様子で、八雲はサイドブレーキを戻す。エンジンキーを回す。同じ動作がまた繰り返される。本当に「なんとかなった」という状況で、やっと車は動き出した。
「やれやれ、あの癖はまだそのままなんだ」
手塩にかけた車が、八雲の運転によってぎこちなく走り去るのを見送ってから、隆夫は車庫のシャッターを締めた。
「隆夫…… この人の運転から、何を勉強するの?」
八雲のぎこちない運転に車酔いしそうになりながら、助手席で茉由は考えていた。
十五分ほど走り、八雲はコンビニに停車する。
「難しい車だなぁ~」
そう呟いてから、車を降りた。
「運転、代わりましょうか?」
「もううんざりだ!」という表情で外に出た茉由が八雲に言う。
「お願いできると、うれしい」
そう言いながら、八雲はコンビニに入って行った。
トイレを済ませ八雲が車に戻ると、茉由はもう運転席に座っていた。
「タバコを一本吸わせて」
「どうぞ!」
申し訳なさそうに聞いてくる八雲に対し、茉由の返事は不機嫌そのものだった。
「感情の起伏が激しい子なんだな……」タバコに火を着けながら、八雲はそんなことを感じていた。
運転を代わった茉由は、ひどく苛立っていた。その苛立ちをぶつけるかのように、朝日が射す幹線道路を車は疾走し、僅か数分で隆夫の自宅に戻ってきた。
タイヤのスリップ音とともに停車した車の運転席から、苛立ちを隠せない茉由が外に出る。
「どうした?」
そんな茉由に驚いて隆夫が聞いた。
「だって……」と言ったきり、茉由は俯いている。
「いやぁ~ 驚いた。上手いもんだ」
そんなことを言いながら、八雲も車を降りた。
「何かあったんですか?」
そう隆夫に聞かれ、
「いや、何も。きっと私の運転が下手すぎたのでしょう」
と、八雲は答える。
「そんなバカな……」
「訳がわからない?」といった表情の隆夫を気にする様子もなく、「それじゃ、お借りします」と丁寧に頭を下げて、八雲は運転席のドアを開けた。
八雲が運転するその車は、まるでオートマ車のようにとてもスムーズに走り去った。だがそれは、あまりにもありふれた日常のひとコマであり、それの意味に気づく人間は少ない。頭に血が昇り自分を見失った茉由も、そのことにまったく気づけなかった。
「いったい、どういう人なの?」
まだ、苛立ちの治まらない茉由が隆夫に聞く。
「何をそんなに苛立っているんだ?」
そう隆夫に問い直され、茉由は力なく項垂れた。
「帰るね」
やっと言葉を見つけたように茉由は呟き、原チャを押して隆夫の自宅を後にした。
「いったい、何があったんだ?」一人残された隆夫はそんなことを考えていた。
ーー続くーー
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