【道行き2-3】
【第二章『車』-3】
昨夜千キロ慣らしを終えた茉由は、朝食を済ませると隆夫の自宅へと車を走らせた。
「おはよう、お疲れさん」
茉由から連絡を受けていた隆夫は、つなぎ服に着替えて待っていた。
「ギリギリだったね、遅くなってごめん」
「無理言ってすまなかった。ところでどうだったこの子は」
ボンネットを開けながら、隆夫は茉由に聞く。
「楽しかったわ、『この車が欲しい』って初めて思ったくらいよ」
「そいつは光栄だな~ オレの自信作なんだ」
目視でひと通り全体を見てから、隆夫は車庫に車を入れた。
ガレージジャッキで車体を上げ、ジャッキスタンドで固定する。オイルが抜かれタイヤが外され、ブレーキなどの点検が始まった。毎度のことだったが、その手際の良さを茉由は感心して見ている。
「どうした?」
「早いな~ って思って見てた」
体育座りの茉由が、隆夫の作業を見ながら聞く。
「誰に貸すの? こんな大事な自信作を」
「義理のある人にさ。昔、ヤンチャしてたころに世話になった人なんだ。年の離れた兄貴って感じの人だよ」
「へぇ~ 隆夫にそんな兄貴がいたんだ」
「一週間くらい旅をするらしくて、レンタカー借りたいって相談されたんだ。だから『オレの車に乗ってくれ』って、オレが頼んだ」
「なんて名前の人?」
「昌夫さん。知らないよ、茉由は」
話しながら、ほとんどの点検を隆夫は終えていた。
「オイルを入れたら、少し走ってくるよ。そのついでに送るから、もう少し待ってて」
「うん」
返事をしたものの、茉由は帰りたくなかった。
「なぜだか理由はわからない。たぶん隆夫が兄貴と呼ぶ『昌夫』という人に、会ってみたいと私は思っている」そんなことを考えていたからだろう、自分の意思とは関係なく言葉が先に出た。
「私も会ってみたいな~ その兄貴に」
「いいけど今日は来ないよ、車は明日の朝取りに来る約束なんだ」
「え! 慣らし今日の朝までって……」
「だって、最終点検の時間が必要だったし、何かあった時に修理する時間も必要だったからさ」
「おかしい、こんなに気を使う隆夫を初めて見た。それほど大切な人だということか……」そんなことを考えながら、隆夫に聞く。
「明日来れば会える?」
「約束は朝の五時、寝坊助の茉由には起きれない時間だよ」
「起きる! 五時までに絶対来る! いいでしょ」
「ま、話として聞いとくよ。言っとくけど五時は予定、早くなるかもよ」
意地悪く隆夫が言った。
「その時は連絡して、すぐ原チャ飛ばして来る」
「わかった。でも、なんでそんなに昌夫さんに会いたいんだ?」
「ただ、何となく……」
隆夫に送ってもらい茉由が自宅に戻ると、昇は店でコーヒーを入れていた。
「おかえり、お前も飲むか?」
「うん……」
「どうした?」
「え? あぁ…… なんでもない」
「コーヒーは?」
「飲むわ」
コーヒーカップを二個カウンターに置き、淹れたてのドリップコーヒーをその中に注ぎ込む。ひと口味見するように喉に流し込んでから、昇はアンプのスイッチを入れた。
「車もレコードと一緒なのかもしれないな~」
「どういうこと?」
カウンターに腰掛け、コーヒーカップを両手で包むように持って茉由は聞いた。
「多機能で誰にでも扱いやすい『CD』が市場に出たとき、手間がかかり取り扱いも神経を使うレコードは市場から姿を消した。だが、わかる奴にはわかっていた。CDはレコードの代わりにはなれない、デジタルとアナログは全く違うものだということがね」
昇は、ターンテーブルにレコードを乗せながら話し続ける。
「ただ、音を出したいだけならCDとミニコンポで十分だろう。今は音のいいCDもたくさん出ているし、操作もリモコンひとつで全部できるからとっても便利だ」
レコードを乗せたターンテーブルがゆっくり回転を始めた。カートリッジを慎重にレコードの溝に落とす。パチパチと小さな雑音の後で、ピアノソロがスピーカーから流れ始めた。
「音楽は一番優れているのがライブ、次がレコードだな」
「レコードもCDも同じに聴こえるけど、ライブが一番はなんとなくわかる」
流れているのはピーターソンのピアノだった。
「音楽を聴くというのは、音符を聞いてる訳じゃないし、音を聞いている訳でもない。何て言うかな、演奏者は歓びや哀しみ、痛み、焦り、絶望または祈り、そして歓喜や悲観、そういう心の叫びや嘆き、または喜びや愛を、自分の声や楽器を通して表現している。音楽を聴くということは、演奏者のそうした心を聴くということだ」
「ちょっと大げさなんじゃない、そういうのって。でも、言いたいことはわかるわ」
「レコードは演奏者が奏でた演奏を、ダイレクトに閉じ込める。だけど CDはそうじゃない。一度デジタル信号に変換してから記録して保存される。デジタル信号に変換する時、変換しきれずに切り捨てられたものがある。計測器には現れることのない音の欠片たちだ。そんなデジタルに変換できなかった埃のようなものの中に、演奏者の心が宿っている。私はそんなふうに思っている」
「そんなのって、普通の人には聴きわけられないわ」
「聴きわけるんじゃない、感じるんだ。だからそれをいち早く感じ取ったのは、リスナーではなくミュージシャンだったはずだ。何故なら、自分の演奏をありのままリスナーに届けたいと願ったミュージシャンほど、レコード音源に戻っている」
「でも、どうでもいい演奏をコンピューターでつなぎ合わせて形を整えて、それを知ったような顔でレコードにしている連中の方が多いと思うな、私は」
「なぜかな…… どんな世界にも、偽物ははばかる。大衆受けして人気が出るのも、なぜか偽物が多い。だが、そんな中にも本物は必ずいる。そして歴史に残り、人の心に記憶として残り続けるのは本物だけだ」
「そんなもんかなぁ」
「私はそう思っている」
「でも、それと車がどう一緒なの」
「自動化って、デジタル化ってことだろう。一緒じゃないか」
「そうなのかな。でも、車は安全になるんだからいいんじゃない。下手くそばっかり走っているんだもの、危なくてしかたないわ」
「そうだな。だが、私は好きじゃない」
「お父さんの好みと、時代の要求は違うってことよ」
「時代の要求なのか? そうじゃなくて、誰かの利益の要求だろう」
「またそんなふうに言う。偏屈じじいになってきたわよ、歳ね」
「残念ながら、まだじじいじゃない。孫もまだいないしな」
「頼りの娘は出戻りしたって」
「あぁ、残念なことに孫はお預けだ」
「孫だけなら、すぐにも作ってあげるわよ」
「おい、そんな相手がいるのか?」
「残念ながらまだいないわ、冗談よ」
「驚かすんじゃない」
「驚くことも必要よ、ボケないためにね」
そう言い残して、茉由は自宅に続くドアを開けた。
ーー続くーー