【道行き2-1】
【第二章『車』-1】
八雲が帰り、バックヤードに残った茉由は、何もせず静まり返った室内にいた。この僅か一時間たらずの間に起きた出来事を、一人で思い返していたのだった。
「旋風のような騒ぎだったわ……」
そんなことを考えながら立ち上がると、ロッカーを開けて着替え始める。着替えといっても、制服をブルゾンに変えるだけなのですぐ終わる。
グレーのブルゾンを羽織ってバックヤードを出ると、茉由はカップラーメンを一つ手に持ってレジに向った。
「色々ごめんね、後藤ちゃん」
「いったいなんの騒ぎだったんですか?」
茉由が持ってきたカップラーメンを精算しながら、後藤と呼ばれたアルバイトの青年が聞いた。
「うん…… ここじゃちょっとね。これ、裏で食べてる」
お湯を入れたカップラーメンを持って、茉由はバックヤードに戻っていった。
下月茉由は二六歳。一度結婚したが、いろんなことが重なり離婚。その後は実家に戻り、父親の店を手伝いながらこのコンビニでアルバイトしている。
「そろそろかな~」
時計を見て茉由がカップラーメンの蓋を開け始めた時、コンコンとノックして後藤がバックヤードに入ってきた。
「さっきのは、なんの騒ぎだったの?」
カップラーメンを食べようとしている茉由に後藤が聞く。
「なんて言ったっけ? ほら、なんとか詐欺……」
「特殊詐欺のことですか?」
「そう、それ! その特殊詐欺に巻き込まれたようだったの」
「あの、おばぁちゃんがですか?」
「そうだったのよ。あ、ラーメン食べながらでもいい? のびちゃうからさ」
そう言うと、茉由はラーメンをすすりながら騒動の経緯を後藤に話した。
「へぇ~ 特殊詐欺ってどこか遠くの世界の出来事のように感じてましたが、こんな身近でも起きていたんですね」
「そうよね、私も他人事のように思っていたから驚いたわ」
後藤の驚きに共感するように茉由は言った。
「でも、未遂で終わったんでしょ。警察まで来たから、本当に驚きましたよ」
「大丈夫だったと思うわ。まだお金を渡してなかったようだし、警察の人が『一緒に自宅まで行く』って、言ってたからね」
最後のスープを飲み干してから、茉由はこう答え、「未遂で終わって、本当によかったわ」と、付け加えた。
「ところで……」
声のトーンを落として、意味ありげに茉由を見ながら後藤が言う。
「あの男の人は誰なんですか?」
後藤は、八雲と茉由が知り合いだと思っていたようだ。
「私にもわからないわ、名前も知らないし」
「本当に?」
素っ気なく答える茉由に、疑いの眼差しを向けて後藤が聞く。
「本当よ、話をしたのも今日が初めてよ」
「な〜んだ、そうだったのか」
変化のない茉由の返答に、いつものトーンに戻って残念そうに後藤は言った。
「あの人よく来ますよね、お弁当とか買いに」
「そうよね、きっと一人暮らしでしょうね」
二人の話題は、あっという間に八雲の個人情報に移る。
「なんかパッとしない人だと思ってたけど、警察の人と仲良しっていうか」
「そうそう、かなり親しげなんだもん驚いたわ。刑事さんが『ちゃん付け』で呼んでいるのよ『あなた何者なの?』って感じ」
「警察の関係者ですかね」
「そうじゃないように感じたけど…… わかんないわ」
「人は見かけによらない、ってことですね」
「ちょっと興味津々よね」
「ですね。探ってくださいよ、下月さん」
「さっき、そうしようと思ったのよ。でも、さらっとかわされたわ」
「え、下月さんがですか? 強敵ですね」
「次のチャンスは逃さないわ」
「期待してますよ」
「任せて」
そう言って、茉由は左拳を突き上げた。
そんな二人の噂の的になっていることなど全く知らない八雲は、部屋に戻ると濡れた衣類を着替え、弁当にカップラーメンというわびしい食事を始めた。
八雲は自炊もするのだが、一人分だけ作るのは面倒だ。普段忙しく動いていることもあって、もっぱら食事は外食かコンビニのお世話になることが多い。
八雲は今年の誕生日を迎えると四十歳になるが、食事を作って待ってくれる女はもういない。
以前、同棲して二年後に子どもができ、籍を入れた女はいた。「小百合」という名前だった。だが、子どもができて家族三人の幸せな生活は、僅か数年で終わった。
その後、数年の月日が流れたが、八雲はいまだに天涯孤独の一人暮らしを続けている。
食事を済ませると、八雲はパソコンに向かう。昨夜編集した写真を再チェックするためだ。問題ないなら依頼主にデータを送信して仕事は終りだ。
いくつかの写真をチェックしている時、ふと茉由の笑顔が脳裏をかすめた。
「暖かいラーメンでもか……」
パソコンから目を離し、インスタントのコーヒーを入れる。時計は夜の九時を過ぎていた。
「どこかの若奥様だろうか? 年はいくつだろう、二十代中頃かな?」
そんなことを考えながら、カーテンを開けて窓の外を眺める。いつの間にか雨は止んでいた。
この時はまだ、自分と茉由が不思議な縁で結ばれていることなど、八雲は全く気づいていなかった。
そんな八雲がパソコンと格闘している時、茉由は一人で車を走らせていた。オーバーホールしたばかりのエンジンは、軽い音をマフラーから出している。
この車は茉由のものではない。友人で、自動車の販売店に勤めている「長谷隆夫」の名義で登録されている。
所有者の隆夫は、自分が勤めている自動車販売店の社長の息子だった。子どもの時から車が好きで、今では自宅の車庫で車の整備までしている。
下取り車に気に入った車があると、隆夫はそれを譲り受け自分で整備して乗っていた。新車を買うことより、古い車にコツコツと手を入れて自分の好みに仕上げることの方が隆夫は好きだった。
だが、息子とはいえ会社の社員という身分の隆夫に、自由になる時間はそれほど多くなかった。さらに社長である父親は、「息子を特別扱いすることなど、一切ないように」と幹部にキツく話していたため、社員の中には社長の息子ということにまったく気づいていない者もいるくらいだった。
そんな訳で、隆夫が一番苦労していたのが、時間のかかる「慣らし運転」だった。車の稼働部分を新しい部品に交換すると、スムーズに動くようになるまである程度の時間が必要になる。ゆっくりと部品同士を馴染ませることが大切なのだ。
ーー続くーー