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埋められない距離:離婚という決断について
はじめに
去年、離婚について少し書き始めては放置していた記事があります。その時は、まだ自分の中で整理がついていなかったのかもしれません。でも、離婚から2年が経ち、少しずつ自分の中で言語化できることが増えてきたように感じています。
「性格の不一致」—この言葉で片付けられがちな現実が、実はどれほど複雑で重いものなのか。同じような状況で悩んでいる方の参考になればと思いながら、改めて書いていこうと思います。
想像力の欠如という根本的な問題
最も顕著だったのは、時間に対する考え方の違いでした。よく「5分や10分の遅刻くらいいいじゃないか」という議論になりました。でも、本質的な問題は、その5分の遅刻自体ではありません。
遅れるということは、たいてい結構前から分かっているはずです。電車の遅延や突発的な事態を除けば、「このままだと約束の時間に間に合わない」ということは、予測できるはずなのです。その時点で連絡をくれれば、こちらも行動を調整できます。カフェで作業をするなり、近くの書店で時間を潰すなり、自分の時間を有効に使える選択肢があります。
でも、その連絡がない。結果として、約束の時間になっても相手が来ない。その間、こちらは何もできず、ただ待つしかない。これは明らかに、相手の時間を奪う行為です。しかし、そういった想像力が決定的に欠如していました。「5分くらいなら大丈夫でしょ」で済まされる問題ではないはずなのです。
積み重なる違和感
時間に対する態度は、他の面でも見られた配慮の欠如と通じるものがありました。特にお金の使い方については、根本的な価値観の違いを感じることが多くありました。
「あの人の旦那さんは〜」という話をよく聞かされました。特にお金に関する比較が多く、それが次第に重荷になっていきました。他人の生活水準との安易な比較は、建設的な話し合いを妨げるだけでなく、現実的な解決を遠ざけてしまいます。
私は現実的な家計を考え、収支のバランスをどうとるか、将来の支出にどう備えるかを考えていました。でも相手は、収入を増やす努力をすることなく、やりたいことや不満ばかりを口にする。「男だから稼ぐべき」とか「女だから我慢すべき」とか、そういう話ではありません。やりたいことがあるなら、それを実現するためにやるべきことをする。その当たり前の責任感が、決定的に欠如していました。
急な出費は、家計の計画を狂わせます。その結果、光熱費の支払いが厳しくなったり、必要な修繕を先送りにしなければならなくなったり。そういった連鎖的な影響を、相手は考えようとしませんでした。「たまには贅沢も必要でしょ」で済まされる問題ではないはずです。行動を伴わない不満や、他人との無意味な比較は、状況を改善するどころか、むしろ悪化させていくだけでした。
清潔感についても同様でした。「ある程度きれいならいいじゃない」という態度の裏には、やはり他者への想像力の欠如がありました。少し散らかった部屋は、時間の経過とともに確実に悪化していきます。そして、最終的に大掃除が必要になった時、その負担は結局誰かが負わなければならない。その「誰か」が自分ではないだろう、という無責任さが見え隠れしていました。
癒えぬ溝:話し合いの限界
何度も話し合いました。というより、喧嘩が絶えませんでした。週末の夜に始まった言い合いが、そのまま週末を潰してしまう。月曜を迎える頃には、お互いに疲れ果てている。それでも、また同じことの繰り返し。
掃除を手伝ったり、お金のやりくりを検討したり、時間の設定を変えたり。考えられる限りの譲歩を試みました。でも、相手からの歩み寄りはほとんど感じられない。むしろ、こちらの譲歩が当たり前のように扱われていく。私の「丁寧に生きたい」という思いは、相手にとっては窮屈なものだったのでしょう。でも、それは単なる几帳面さからではなく、共に生活する者として最低限の配慮を求めていただけなのです。
家購入という最後の望み
そんな中での家の購入でした。喧嘩は絶えないものの、「これから何か変わっていく、いい方向に変わるのだろう」。そんな期待を持っていました。新しい環境で、新しい生活を始めることで、お互いの関係も変わるのではないか。今思えば、それは最後の望みだったのかもしれません。
しかし現実は残酷でした。引っ越し当日、全ての荷物を運び終えた後で、突然の別居の申し出。荷物を置くスペースすら決まっていない新居で、その言葉を聞いた時の衝撃は、今でも忘れられません。ここでも、タイミングの想像力の欠如を感じずにはいられませんでした。これほど重要な決断を、なぜ家を購入する前に伝えられなかったのか。
離婚協議:崩れゆく信頼
協議は数ヶ月に及びました。メールでのやり取りが基本で、直接の打ち合わせは3回ほど。一番辛かったのは、何かが決まれば何かがひっくり返される、その繰り返しでした。約束が約束として成立しない。信頼関係が根底から崩れていく感覚は、想像以上に苦しいものでした。
この時期、私の精神状態は明らかに異常でした。アップルウォッチのデータを見返すと、睡眠も呼吸も、普段とはまったく違うパターンを示していました。人を信じることができなくなっていく。こんなに人を信じられなくなるものなのかと、自分でも驚くほどでした。
夜中に目が覚めて、協議の内容を考え直す。新しい提案をメールする。返信を待つ。そしてまた、既に決まったはずのことが覆される。この繰り返しは、単なるストレス以上のものでした。人間関係の基本である「約束」という概念自体が、崩壊していくような体験でした。
両親という支え
両親の存在は、本当に大きかったです。休日に会いに来てくれたり、一緒に旅行に行ってくれたり。実は最初、親に心配をかけることが申し訳なくて、あまり状況を話せていませんでした。でも、何も言わなくても気にかけてくれる。そんな両親の存在が、どれだけ心強かったことか。
旅行先での思い出は、特に鮮明に残っています。父とゆっくり話す機会を持てたこと。母が「あなたの選択は間違っていない」と言ってくれたこと。そういった言葉の一つ一つが、その時の自分には大きな励みになりました。
離婚成立とその後
離婚が正式に成立したのは、新しい同僚の歓迎会の最中でした。トイレで携帯を確認すると、弁護士からのメール。「離婚届が受理されました」。深呼吸をして、世界が変わったような感覚を覚えました。「ようやく終わった」。その思いが、強く込み上げてきました。
離婚直後は、本当に何をしていいかわかりませんでした。休日は単にお酒を飲んだり、ジムに行ったり。ただ時間が過ぎていくのを感じる日々が続きました。子どものことを考えると、少なくとも体だけは健康に保っておきたいという思いがあり、お酒は適度に、運動は継続的にと心がけていました。
子どもとの新しい関係
面会の約束は離婚前に決めました。当時は、本当に約束通りに会えるのだろうかという不安で押しつぶされそうでした。最初の面会の日、どきどきしながら待ち合わせ場所に向かったことを覚えています。
でも、毎月の面会を重ねるごとに、その不安は少しずつ和らいでいきました。いまでも、子どもへの愛情は全く変わりません。むしろ、限られた時間だからこそ、一緒にいる時間を大切にしたいと思います。
面会の日は、近くの公園で遊ぶことが多いです。シンプルな時間ですが、子どもと一緒に遊具で遊んだり、かけっこをしたり。そんな何気ない時間の中で、子どもの新しい一面を発見することも多くあります。「パパ、この前こんなことあってね」と話してくれる様子を見ていると、離れて暮らしていても確かな絆が築けているのだと感じます。
新しい日常の発見
ある日、何気なくカフェに立ち寄った時のことです。そこで気づいたのは、「人がいるってだけでいい」ということでした。周りで黙々と作業している人々、談笑している人々。他人と会話することすら必要ない。ただそこに人がいる環境に身を置くことで、不思議と心が落ち着くのを感じました。
カフェで仕事をしていると、時々、同じような境遇らしき人を見かけることがあります。休日に一人でパソコンに向かう姿。もしかしたら、私と同じように人生の転機を迎えているのかもしれない。そんなことを考えながら、なんとなく連帯感のようなものを感じることもありました。
これからのパートナーシップ
正直なところ、将来への漠然とした不安はあります。例えば、相手に新しいパートナーができた時、子どもとの関係性がどう変化していくのか。相手の新しい関係自体は全く構わないのですが、子どもとの関係だけは心配です。
でも今は、人とのつながりを少しずつ再構築していきたいと思い始めています。積極的にパートナーを求めているわけではありません。ただ、この2年間で気づいたことは、人とのつながりは決して失うものではなく、形を変えながら築いていけるものだということです。
「性格の不一致」を超えて
「性格の不一致」という言葉の裏には、表面的な習慣の違い以上のものがあります。他者への想像力、約束の重み、共同生活における配慮。そういった根本的な価値観の違いが、日々積み重なっていった結果が、取り返しのつかない溝となったのです。
それは誰が悪いというわけではありません。ただ、物事の捉え方や、他者への配慮の仕方が、あまりに違いすぎた。時には譲歩も必要ですが、基本的な価値観があまりに違う場合、その譲歩自体が大きなストレスとなり、やがて限界を迎えます。
この記事を読んでくださっている方の中に、同じように悩んでいる方がいるかもしれません。「性格の不一致」という言葉で片付けられがちな問題の裏には、もっと本質的な価値観の違いが隠れているのかもしれません。その違いに気づき、向き合うことは辛い過程かもしれません。でも、その先には必ず新しい道が開けているはずです。