
真実と事実の違いと矛盾:ファクトチェックとは?徹底検証
みなさんこんにちわ。哲学的少女ゆきみです。
最近、「真実」や「事実」という言葉がクローズアップされることが増えてきました。
SNSとマスメディアで、これが真実だ!と言わんばかりにやり合っていますが、時に真実と事実の明らかな混同が見られます。
それも問題なのですが、それ以上に言葉の捉え方に矛盾があることに気づきました。
真実と事実の違いについて解説しながら、その矛盾を深掘りしていきたいと思います。
じゃあいくね
真実と事実の矛盾
その意味にじっくりと向き合えば、まるで暗闇に差し込む一筋の光のように、複雑で謎めいた世界が広がっていることに気づかされます。
ある人は「真実は一つであり、無数の事実がその上に積み重なって唯一の答えに辿り着く」と語ります。
一方で、また別の人は「一つの客観的な事実から、人の解釈により無数の真実が生まれる」と主張するのです。
この2つはあきらかに矛盾ではないでしょうか。
これが違和感の原因です。
この対立は、私たちがどの視点から現実を捉えるかという、言葉や認識の曖昧さに根ざしているのかもしれません。
ここでは、FACT(事実)とTRUTH(真実)の両側面に迫り、その交錯と葛藤、そして哲学的な洞察を紐解いていきます。
FACT(事実)――動かぬ現実のピース
事実とは、誰もが確認できる客観的な「現実そのもの」です。
温度計に映し出される数字、科学実験の結果、歴史の記録―これらは検証可能で、普遍性を帯びた動かぬピースです。
例えば、
・「富士山の標高は3,776mである」
・「2024年にパリオリンピックが開催された」
・「AさんがBさんを殴った映像が存在する」
といった情報は、誰が見ても変わらぬ現実として存在します。
ただし、事実にも観測の方法や文脈による微妙な違いが生じる場合があり、その取り扱いには注意が必要です。
たとえ映像が存在しても、「誰が正しいか」「どちらに非があるか」といった判断は、事実の枠を超えて人間の解釈が入り込む余地を残してしまいます。
TRUTH(真実)――事実に重ねられる情熱と物語
一方で真実とは、嘘偽りのない本当のことです。
普遍的なものであってほしいですが、我々は神ではありません。
事実の上に人間の感情、経験、価値観という彩りを添えて築かれる「本当のこと」です。
私たちは常に限られた視点で世界を捉えるため、事実そのものをどう解釈するかで無数の真実が生まれてしまいます。
たとえば、先ほどの「AさんがBさんを殴った映像」を巡っては、
・Bさんは「突然の襲撃に恐怖し、心が砕けた。これは明らかに暴力だ!」と叫ぶかもしれません。
・Aさんは「Bさんが先に手を出したため、防衛に回った。自分は正当な行動を取った」と主張するでしょう。


・第三者は「映像は一部分しか捉えておらず、全体の事情は見えない」と判断するかもしれません。
真実は固定されたものではなく、見る人の背景や感性によってその色合いを変え、常に流動的な存在として私たちの前に現れます。
「真実は一つ」か「無数にある」のか――事実の積み重ねが照らす真実の姿
私たちは真実について、異なる2つの視点に直面します。
真実は主観的なものであり、人の数だけ無数に存在するといえます。
同じ出来事であっても、被害者、加害者、そして第三者という異なる立場の人々は、それぞれの背景や感情、経験に基づいて異なる解釈を下します。
しかし、全てはそれぞれ真実かもしれませんが、みんなが都合の良い真実を主張すれば、社会は混乱し収拾がつきません。
ではどうしているのか?
一般的には社会通念上の概念に照らし合わせ合意できるものが、真実あるいは真実に相当するものとされています。
これは事実を元に構成されます。
例えば事件の現場で残されたさまざまな証拠や証言が、整合性をもって集約されると、誰もが認める客観的な事件の全体像―すなわち「真実に相当するもの」が明確になるのです。
こうした場合、複数の事実という硬いピースが組み合わされ、特定の真実の姿が浮かび上がると考えられます。
これらを数学で分かりやすく例えてみます。
X+Y=5 という事実があったとしましょう。

この時、XとYの姿は無数に存在します。
ある人の視点ではXは1かもしれませんし、別の人の視点では4かもしれません。
政治などでよく見られますが、都合よく解釈する余地があり、同じ事実に対して、全く異なる意見が対立したりします。
ここでは事実に対して、真実は複数存在することになります。
では、さらに2X+Y=7という新たな事実が分かりました。

するとXとYの真の姿が見えてきます。
X=2、Y=3です。
この場合、複数の事実より一つの真実が明らかになります。
これは事実の積み重ねがもたらす真実の一側面であり、私たちが現実を理解するための強力な手がかりと言えるでしょう。
しかし、現実はこんなに単純ではありません。
どうしても主観的である以上、百個の事実があったとしても、それが100%の真実であるか、を証明することは、原理的に不可能なのです。
ファクトチェック
最近メディアはファクトチェックの重要性を指摘しています。
事実とは誰もが確認できる客観的なことです。
しかし、これがデマがであれば、導き出される真実は大きく変わってきます。
デマ報道はあってはなりません。
SNSはファクトチェックがないため、このデマが横行すると言われていますが、これは事実でしょう。
ファクトチェックはしてませんが。
一方でマスメディアはファクトチェックしているから報道できない事がある、とも言ってますが、これは詭弁です。
メディアが問題視されているのは、そんなことではありません。
都合の悪いファクトを報道せず、都合の良いファクトだけで構成し、真実を都合よく誘導している事に対する問題提起なんです。
ジャニーズ問題が良い例です。
フレーミング効果なども多様されています。
例えば「50%の人が賛同した」とするのか、「50%もの人が賛同しなかった」とするのか、同じ事実でも提示の仕方やタイミングで与える印象は異なります。
有名なジョークとして「パンは危険な食べ物」というものがあります。
犯罪者の98%はパンを食べている
パンを日常的に食べて育った子供の半数は、テストが平均点以下である
暴力的犯罪の90%は、パンを食べてから24時間以内に起きている、などなど。
これは事実を並べたものですが、「パンは危険な食べ物」というただの印象操作でしかありません。
兵庫県問題ではパワハラを4割が見聞きしたと報道し大問題となりました。
これも事実に基づいていますが、本来の内容とはかけ離れています。

結局、事実だからといって真実がそこにあるわけではないのです。
哲学的な真実:曖昧性とその迷宮
古代から現代に至るまで、哲学者たちは「真実」と「事実」の関係に激しく切り込んできました。
アリストテレスは「真実は現実との一致」と説き、客観的な事実こそが真実の土台であると主張しました。
しかし、私たちは決して現実をそのまま、完全に知覚することはできません。
すべては言語や感覚というフィルターを通して捉えられ、そのフィルター自体が解釈の余地を生み出します。
フリードリヒ・ニーチェは、真実とは時代や文化、個々の価値観によって形作られる「神話」であると主張しました。
彼の視点では、事実という硬直したデータは存在するものの、その上に築かれる真実は常に流動し、固定することのない幻影のような性格を帯びています。
さらに、マルティン・ハイデガーは「真実とは存在が開示される状態」であると論じました。
彼が示唆するのは、同じ現象でも、人によっては「癒し」と感じられ、また別の人にとっては「悲しみ」や「絶望」として映るという、まさに一つの事実が無限の意味を孕む可能性です。
このように、真実は決して明快なものではなく、むしろ曖昧で、常に変容し、矛盾を内包する迷宮そのものなのです。
私たちはその中で、あえて一つの答えを求めるか、あるいはその不確かさを受け入れるか、選択を迫られているのかもしれません。
どう生きるのか?――柔軟な視点で真実を捉える
事実と真実は、対立するのではなく、むしろ相互に補完し合っています。
客観的な事実は、科学や法の基盤として必要不可欠ですが、私たちが生きる上での「本当」は、そこに込められた感情や経験、そして価値観によって形成されます。
例えば、温度計が示す「10℃」という数字は普遍の事実ですが、その温度を「冷たい」と感じるか「心地よい」と感じるかは、あなただけの真実です。
SNSの発達により、複数の真実に溢れています。こんな時代だからこそ、他者の視点を尊重し、歩み寄る事が今求められています。
まとめ――事実と真実の共演が生む新たな視界
事実という共通の基盤の上に、私たちはそれぞれの物語―真実―を自由に描きます。
事実と真実が織りなすこの迷宮の中で、多角的な視点から、それぞれの想いを共有し、自らの「本当」を探し求める事が重要です。
この儚い真実と事実の共演が、私たちの内面に新たな光をもたらすのです。
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