応用雛菜哲学概論
ご挨拶
皆様初めまして砕け散りしPPと申します。担当は樋口円香なのですが今回は雛菜について一つ書いてみようと思います。今回初投稿につきお見苦しい駄作となるやもですがどうぞ大目に見て下さいな。
応用雛菜哲学とは
さてここから本題となりますがまずはこの珍妙なタイトルと記事の目的を一つ解説していきましょう。
この記事の目的は詰まるところ、日々プロデュース業務と日常に勤しむ皆様ともにガチャ爆死やグレフェスの悪魔、理不尽な上司といった苦しみの輪廻からの解脱を目指すことにあります。
わざわざタイトルに"応用"と銘打ったのはつまりこれが応用と実践の哲学であることを示すためなんですね。
さて続いては何故"雛菜"なのかですが、その前に少し自分語りをさせて下さい。
これは私の幼少の頃の話、多くの子どもがそうであるように見るたびに怖くて怖くて泣き喚く様なものが私にもあったわけでありますね。それが皆さんご存知のこれであります。
えぇそうです千と千尋です。私は昔からジブリ映画は大好物でありますがこの映画のですね、千尋が油屋から出られなくなって神様が続々現れるシーンがありますでしょう、それがどうも恐ろしくて堪らなかったわけであります。そしてそれが何故か今になってわかって来たんですよね。それが何故かといえばそう"神聖"なものを絶妙に表現しているであるからに他ならないと思うんです。神聖なものは怖いんですよ。えぇ
そしてここまで長々と自分語りをしたので察しのいい方なら気付く頃かと思いますがそう、ここで雛菜の例のサジェストです。
そう即ち
高校一年にしてあの確固たるアイデンティティを確立した姿は神秘性を感じざるを得ません。怖いという感想を抱く人が多いのはその裏返しではないでしょうか。
つまり、雛菜の精神性を自らのうちに取り込みにより我々の精神をより"やは〜しあわせ〜"な次元に引き上げようと言う訳です。
何故そう見えるのか
ではなぜ市川雛菜が怖く、そして神聖に見えがちなのか、これは優秀なミスタープロデューサー諸君ならば自明かと思います。そう"自己完結性"です。
雛菜(特にwing編など成長を見せる前の雛菜)は周囲に対して異常なほど冷めたような見方をするきらいがあります。
雛菜は自身と幼馴染(あるいは両親がここに含まれるやも)といった極々限られた対象のみに対してしかその関心を向けようとせず、自分の幸福論の中で完結してしまうという浮世離れした振る舞いをします。
そしてその在り方が市川雛菜という存在に測り知れなさを与えているのでしょう。
ここで神秘の定義を見てみますと、
しん‐ぴ【神秘】
[名・形動]《古くは「じんぴ」とも》人間の知恵では計り知れない不思議なこと。(デジタル大辞泉より)
そう、つまりこの計り知れなさが雛菜の”神秘性”と”怖さ”をもたらしているのでしょう。
何故雛菜は神秘的で在れるのか
では、つぎに雛菜は何故、神秘的でいられるのでしょうか。本来的にヒトは他者に対するある程度の依存があるはずです。
実際彼女のユニットメンバーである福丸小糸、樋口円香は浅倉透の様な相手に強く依存をしています。
しかし、雛菜はユニットメンバーの中でも特に浅倉と対等に振舞います。(今回は割愛しますが樋口と浅倉のあれは対等とは考えていません。後で語りたいね)
それは雛菜が確固たるアイデンティティーを確立しているが故の行動であるのは自明です。
雛菜は外側の世界を敢えて曖昧なままにすることで、逆に自分の内側の世界と深く向き合おうとします。そうして雛菜が編み出したのが”しあわせの哲学”なのでしょう。
雛菜は多くのことの定義づけを避けることで揺らがない”しあわせの定義”を手にした訳です。これが雛菜の独立性の根源であり、神秘性をもたらす実態です。
雛菜の進歩
もちろん(初期の)雛菜の在り方はある程度”しあわせ”の実現や不幸の回避においてはある一つの”未熟な"真理であるといえるでしょう。しかしながら雛菜の幸福論はどちらかといえば不幸の回避に特化しています。それを象徴するのがこちら
このような考え方は雛菜哲学最大の長所ではあれど、しかし雛菜の成長の余地も示しています。ではそれが何なのかはシャニPが指摘しています。
つまり”しあわせ”の可能性を自ら狭めてしまうことがあるということです。これこそが雛菜の”未熟さ”であり雛菜はより自らの幸福により貪欲になれるということでもあります。
そしてその手段とはなんでしょうか?
それは即ち、曖昧にした対象に今一度向き合うことにあります。
一度閉ざすことで揺らがぬほど成熟した内面をもって、再び外界と向き合うことで雛菜は新たな可能性を手にできるのでしょう。
Change_
ここで一度パラコレに触れてみましょう。
勿論この解釈に異議を唱える方もいらっしゃるでしょうが私はパラコレシナリオのことを雛菜のそれにしろ円香のそれにしろ”何らかの分岐を誤りtrue endに至れなかった世界線"と考えます。
何故Change_がtrue endではないのかは即ち成熟が見られないことに由来しています。
雛菜は今までも悩みにぶつかることはあれど、”雛菜はしあわせ”、”雛菜は雛菜を知っている”この二つの自信によって迅速に立ち向かえていました。
しかしこの雛菜は曖昧さを重んじるあまり自分の軸にかかわることすらも曖昧にしてしまい”しあわせ”の追求について怠慢とすら見える振る舞いをしています。
実際悩みにぶつかり夢という曖昧なもので自身の哲学が揺らぐのは雛菜らしくない、そして神聖ではないんですよ。神様は死んだってよってパラコレは誤った成長の道筋ではないでしょうか。
まとめ
さてここまで駄作を読んでくださりありがとうございます。今回は雛菜の哲学とその将来性について語らせていただきました。
これがプロデューサー諸氏と雛菜の”しあわせ”の一助となれば幸いです。
やは~ありがとうございました~
今後
今後はノクチルとモラトリアム、樋口の浅倉化と浅倉の樋口化、樋口のペルソナ,なんかについて語りたい次第ですね。