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DV法が施行されたものの…シングルマザーへの道のり(3)
2009.4.21のブログから
ブラッシュアップして再投稿してます。
一時期離れ離れになってしまっていた娘たちと、今旅行したり海に潜ったりできてること…夢みたいだな。
***
短い夏の逃亡から、連れ戻されて1カ月少し経った頃にDV法は施行された。
でも、お金も車の鍵もとりあげられ、数分おきの電話で監視されていた私にはどうすることも出来ない。
ある日、酔ってまた暴力を振るおうとした旦那から走って逃げ出した。
思わず家を飛び出したものの、行くあてもなく頼れる親もいない私は途方に暮れた。
ふと、夏に逃げていた時に働いていた場所で知り合い、「何かあったら寮つきで事務の仕事もあるから連絡してね」と名刺をもらっていたことを思い出した。
藁にもすがる思いで電話したのだった。
このときは、本当に身の回りのものは何も持ち出せなかった。バッグひとつと着の身着のままだった。
大きな屋敷のひと部屋に「今夜はここで休んで」と言われその日は眠ったと思う(記憶が定かではない)
次の日、子どもたちを連れに小学校へ向かうものの、既に先回りをされていて、『若い男と逃げたから、迎えにきても引き渡さないように』とひどい嘘を言われていたようで、先生たちは娘たちに会わせてもくれなかった。
次に長男の中学へ向かった。
担任の先生は、
理由を話すと
中学入学そうそう息子が目の周りをお父さんに殴られて真っ青なあざをつけて登校した姿を知っていたのもあり理解してくれ、
「私は何も知らないことにしますから」といい、長男を自由に早退させてくれた。
今思い返すと本当にいい先生だったと思う。
幼稚園だった末の娘も私が行っても引き渡してもらえなかったのだが、時間をおいて幼稚園が終わる時間に長男に迎えに行ってもらっうと、普通に返してくれた。
長男と末娘を連れて、お屋敷の一室に暫く住むことになるのだが、小学生の娘2人はこれから数ヶ月離れ離れとなってしまう。
警察に言ってももちろん全く民事扱いで取り合ってくれなかった。
虐待の可能性だってかなりある状態だったのに、公の人たちは誰もきいてくれなかった。
小学校の行きかえりを待ち伏せしたりもしたが、旦那が送り迎えして休み時間も監視されていた・・・
私の言葉だけでは学校は全く取り合ってくれなかった。
口のうまい、そして怒らせると怖くて迫力のある面倒な奴でもある旦那が断然有利だった。
物を投げられ、怖さで飛び出してしまったが、娘たちを一緒につれて出なかったことをどんなに後悔したか。。あの時には翌日に連れ出せる物だと思っていたのだ。
それからもあれこれ考え、最終的には我が子をさらう羽目になる
その日までが長かった。
私からの携帯は着信拒否の設定だろうか、つながらないようにされていた。
それでも、監視の目をくぐって長女がいれてくれた留守電に
『助けて』って声が入っていて
娘の想いを考えるとつらいなんてもんじゃない。
なんど涙を流したことだろう。
法律で保護命令出るまでが、長くつらかった。
それもまだ法律の仕組みもわからず、半径数メートル近づかないというものだけで申請してしまった。
家から数日間、夫の方を出て行かす方法もあったのだ。
それも同時に申請すれば最低限の自分の身の回りのものや子どもたちのランドセル等は持ち出せただろうに。
保護命令の申請にも、証拠等が必要だったのだが
殴られて前歯を折られたときも
歯医者さんには転んだことにしてしまっていたし・・
記録しておくことの大切さを感じた日々でもある。
もしDVに今苦しんでいる人が読んでくれていたら
些細なことでもノート等に書いておく事をすすめたい。
ただ、相手に見られたらと思うと怖いだろうから、仕事先や別の場所に置ければ一番だろう。
幸いというか、私の腕には、DVの証拠に充分なるアザがあった。
鞄を取り返そうと車の窓に手を入れた時に窓を閉められ挟まれて、そのまま少し引きずられたときのあざが大きく残っていて保護命令が無事でたのだ。
ようやくその書類を学校に見せて娘達との面会?が叶った。
頼み込み、ようやく学校の応接室で10分間だけあわせてもらえた。
その場で連れて帰りたかったのに・・それも叶わず
娘たちと離れたまま、4ヵ月近い日々が過ぎていった。
後から長女に聞いたのだが(髪を染め、サングラスで変装して小学校周りをウロチョロしていたので)「◯◯ちゃんのお母さんによく似た外国の人がいたよ」とかお友だちに言われていたらしい。
続く