神秘家エクリチュール【受肉篇1】
たしかに、神秘家は、主観的である。逆に、主観的でなければ、神秘家とは言えない。よって、客観的な尺度はあまり用いず、”素直に”表現していきたい。神学とは手を切ったエクリチュール、ということである。
さて、まずは、「受肉」について取り扱いたい。
キリスト神学では、受肉とは、神が人間と同一性を有すると考える概念――とかいうふうに、まずは言えるだろう。少なくとも、そう捉えている。
問題は、一体、即自的には、体験的には、肉体的には、何を意味するのか。どのような主観におけるクオリアなのか、ということを神秘家として明らかにしておく。
必要条件に思えるものは、①信仰心、②自己の超統合感覚=③霊的な感受性、であると思う。
体験だけまず述べると、3度、これが受肉の体験か、と思われたことがある。今回は、そのうちの一度目を取り扱いたい。
いずれにせよ、まず、それがなぜ「受肉」に該当するのか、と言われれば、かなり強いエピファニー(啓示性・直感性)によったとしか言えない。例えば、受肉ということについて調べている最中にそれが起こる、とか、受肉を”したい”というふうに神に願ったとき、などにそれらが起こる(①信仰心)。
はじめの体験は、キリスト教に強い関心を有し、カトリック教会に入ろうか否か悩んでいたときである。もっぱら読んでいる本は、キリスト関連のものだった(①信仰心)。
ある夜中に、第三意識状態(「洞窟のなかのこころ」/デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ著参照/いわゆる覚醒でも睡眠でもない意識のスリット)で目覚めたとき、全身に”細やかな振動”、”ヴァイブレーション”が、めぐった(②自己の超統合感覚=③霊的な感受性)。
それは、肉体感覚的には、明確に、振動、であるが{実際には振動などはしていない/クオリア(内感)のみ生じる}、共感覚を含んでおり、振動自体が、「言語を聞いているときの、”意味の納得感”」を伴い、同時に、「音楽旋律を聴いているときの心地よい感覚」を伴う。また、全身のあらゆる部分が楽しく会話をしている、というふうな感覚でもあった(②自己の超統合感覚=③霊的な感受性)。
重要なのは、受肉、というとき、肉体に、ロゴスが受肉する、とかいわれることである{ゾーオン・ロゴン・エコン=(み)言葉をもった動物}。そこから理解をすすめると、動物たる肉体に、(み)言葉、が同一した、というふうにも考えうる。
意味自体の肉体への感電、というふうに体験質を表現もできる。
この際、通常言語というのではなく、言語を聞いたり話したりして、有意味感(互いの一致感)が出た時の、有意義・有意味な会話のときの、その、言語表層を取っ払った、意味性~喜びの脈動、の部位の、あのクオリア、である。さらにいうと、振動が、言葉の叙述や発話で時間軸方向に伸びていくときの叙述感、発話感に変容しているともいえる(②自己の超統合感覚=③霊的な感受性)。
まさに、「言語を聞いているときの”意味の納得感”」が全身をそのまま使って(全身が口になったように)、音楽的に駆け巡るのである。ロゴスが全身に同一している、というふうに言うこともできる。さらに、状況証拠的に、その前後に、キリスト教に関心を深めていたり、その神となんらかの意味流通(たとえば、受肉したいと願ったり)があれば、この現象を、受肉、というふうにわたしは、定義している。(①信仰心、②自己の超統合感覚=③霊的な感受性)
さらに詳細にクオリアは言語化すると、その際の「言語を聞いているときの”意味の納得感”」においては、実際には、何の言語かもわからないし、言語上での意味はわからない。だが、実際に言語を聞いて、意味を納得したときの、クオリア、が生じるのである。言語以上の言語性(強い、意味感や納得感が生じる)しかも、全身自体が振動することで、それを奏でている(ように思われる)。大変、気持ちがよい。
哲学者ハイデガーが言った、静けさのなかの響き、とかいう言葉や、禅宗(特に南直哉さん曰く)などの瞑想で起こるヴァイブレーションもこの類型に思える。ついで、キリストへの信仰心が要因になっている場合、受肉、と定義してよさそうに考えている。
ロゴスとはギリシャ的には、万物を流転させる、というふうに形容されるが、まさに、共感覚の渦、が、言語や肉体感覚をまぜこぜにして、響きあい、ひとつの純粋意味性(のような強い納得感=悟り感)のクオリアを現出させる、というふうである。
だが、現実における、一般語における、意味、は不明で、それが好ましく素晴らしいものであることは、わかるのだが、言語での意味は指し示し難い。あまりに精妙なのか、曖昧なのか、言語化ができない、というふうなのである。
宗教に見られる意識状態の変容に伴う”ヴァイブレーション(振動)感”という原体験は、よく報告されている。さらに、その具象的なヴァイブレーション感に、抽象的な意味性や会話感や喜びの感覚が共感覚的に付加されて、それらがひとつのクオリアに統合されているときに、いわゆる宗教的な深い体験がなされているというふうに考える。再びだが、そこにキリスト教的なニュアンスがあれば、受肉、と明確に言語化してよいというふうにも思う。
※この際、イエス・キリスト以外に、人間は受肉などできるのか、という宗教イデオロギー的な闘争は起こるが、この問題は神秘家として、触れないこととする。
これが、ひとつ目の体験であった。
その後はそのままゆっくりと寝入ってしまって、翌朝から何かが変わったかと言えば、そうでもない。わからない。ただ、神の子、であることの自覚を深めた、というふうである。
いずれにせよ、この前後においては、強く、キリスト教に惹かれており、神に、受肉をお願いするほど、関心が高かったことは事実だ。かつ、同様のクオリアや特異感、ピーク感のある体験が頻繁に起きていたわけではないので、受肉、という言葉を知らなくても、特質的な体験として、認知する程度の強度のあるクオリア(体験)だった。
※霊というもの(こと)が、超統合感覚的な実態を指し示す言葉である可能性をここで示唆もしておく。かつ、それは内的な現象にとどまらず、少なくとも、強いシンクロニシティという外的な呼応性のあることも、含めておきたい。
2に続く