【日記】「ミュウツーの逆襲」25周年らしい
こんにちは☀ 毎日暑いですなシロデスナ…。
ライブドアニュースによると7月18日は「ミュウツーの逆襲」25周年らしい。
「ミュウツーの逆襲」については、以前「アニポケが作ってきた『ポケモンらしさ』についての私見」という記事で「アニポケのターミナル(終局点)」であると語った。
折角の機会なので、改めて「ミュウツーの逆襲」について思うところを語っていこう。余談だが、英語には「折角なので」にぴったり当てはまる言葉がないらしい。
「ミュウツーの逆襲」
「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」
今回、旧作の方を観たかったがアマプラでの配信期間が終わってしまっていたのでリメイクの「Evolution」を見直した上での感想となる。
大筋は変わらないが、「アイツー」などカットされた部分については曖昧な記憶を頼りにするしかないので今回は触れないことにする。
先にリメイク版ならではの感想を一つ言っておくと、BGMのいくつかが当時の現行シリーズであったSM風にアレンジされているのは、SMファンにとっては嬉しいサービス🌴
JN放送後の特別編の「遥かなる青い空」でもSMのBGMが使われていたので湯山監督のSMに対する思い入れが込められているのかも。
本作はミュウツーによる自問自答から始まる。
ミュウツーは自分が何者であるかを悩む。ポケモンでもなく人間でもなく…作り出された存在。そしてミュウツーはその存在意義をサカキに与えられる。
ミュウツーはサカキの支配を逃れ人間への逆襲を志すわけだが、結局その行動原理はサカキの思想によって縛られている。ミュウツーは「世界最強のポケモン」であることをアイデンティティとしてオリジナルのミュウに立ち向かう。
ミュウツーを産み出した科学者はミュウのことを「世界で一番珍しいポケモン」と語った。しかし、ミュウツーにとっては「最強」であることが「オリジナル」の要件だった。「最強」であれば自分の存在が認められる―こうしてみると必死に「おや」に認められたがっている子どもに見えるかもしれない。
何が自分を自分たらしめるのか。ポケモンにおいてその問いは「何がポケモンなのか?」に行き着く。「ミュウツーの逆襲」においては、「生き物」という言葉でその枠組みを外そうとする。
ポケモンの「共生」のテーマにおいて一番に乗り越えるべき壁は、ジョーイが語った「生き物」としての本能にあるのかもしれない。お互いを認め合うにはお互いの領域を守りながら、「なわばり」の境界をはっきりとさせすぎない曖昧さ(ファジー)が必要になる。「生き物」という言葉も「ポケモン」や「人間」よりも曖昧な表現だ。
最後に石化したサトシが「生き物」たちの涙によって復活する流れも非常にファジーな展開だ。ご都合と言われようがなんだろうが、そこにある想いが「生き物」を「生き物」たらしめるのだ。
「ミュウツーの逆襲」が公開されてから25年。これまでに何度ポケモンは「ポケモンらしくない」と言われたことだろう。
デザインやネーミングにはじまり、追加進化、リージョンフォーム、ウルトラビースト、パラドックス…。どれもが「ポケモン」の枠を超えた新しい存在だが、どれもが「ポケモン」として「生き物」として受け入れられたものたちである。
「ポケモン」がそのように世界を広げていけたのはもしかしたら「ミュウツーの逆襲」のおかげかもしれない。いや、その前からのものか…。それもまた曖昧なもの。