【雑談】立場によって意味を考えるべき言葉
日が沈む速さに愕然とする雑談🍂
先週、「自分ではない誰かに声を届けるということ」という雑談記事を投稿した。詳細は以下のリンクから確認してほしい。
ここでは自分ではない他者とコミュニケーションをとるためには、自己と他己を極端に割り切らない方法を模索する必要があると述べた。逆に言えばこの世界には自己と他己を分断する「極端な方法」に溢れているということでもある。
本記事では先週の記事では語り切れなかった「極端な方法」について―特に言葉によるもの―語ってみようと思う。一般的には特に悪い言葉ではないけれども自己と他己に線を引いてしまう、そんな言葉の使い方について。
郷に入っては郷に従え
これは昔からよく使われる諺だが、使いようによっては分断を招く言葉の一つでもある。注意すべきは「郷に入っては郷に従え」という言葉を使う時の発話者の立場だ。
「郷に入っては郷に従え」の発話者の立場としては大きく分けて三つ想定される。
新しく"郷"に入る人物
元々"郷"に住んでいる人物
"郷"とは縁がない人物
「郷に入っては郷に従え」という諺には処世術的な意味合いが含まれていることから、「新しく"郷"に入る人物」か「"郷"とは縁がない人物」が戒めの為に使うのが順当な使い方と思われる。
ただし、実際の使われ方としては「元々"郷"に住んでいる人物」が発することもしばしばだ。例えば新しく”郷”に引っ越してきた人物が"郷"における何かしらのルール違反を犯したとき、「郷に入っては郷に従え」という言葉を使って元の住人が諭すのも自然な情景だ。
だが、ここで一歩立ち止まって考えてみると「郷に入っては郷に従え」は発話者によって言葉の強さにあまりにも大きな違いがあることに気づかされる。自戒の為に発する言葉を誰かの戒めの為に使う時、そこには大きな分断が生まれているのだ。
お客様は神様
「お客様は神様」は演歌歌手の三波春夫氏が語った心構えのこと。諺と呼ばれるほど古い言葉ではないが、現代においては一種の諺のように使われている。
これについては先の「郷に入っては郷に従え」とは異なり、三波春夫氏の意図とは異なった使われ方をしていることが本人側の窓口から語られている。
現代における「お客様は神様」という言葉は所謂カスタマーハラスメントの文脈で使われることが多い。商店、飲食店などにおける消費者が絶対的な立場にあることを示す言葉…これに関しては誤用と断言してもいいだろう。
本来の真意としては芸を披露する立場にあった三波春夫氏があくまで己の芸を高める為の心構えとして語った言葉であり、"お客様"の立場を定める為の言葉ではない。ましてや"神様"が発する言葉としては全く想定されていないものだ。
「郷に入っては郷に従え」にしても「お客様は神様」にしても、自らを戒め鼓舞するのではなく、誰かを戒めたり自分の意のままにするために使う者によって分断が生じている。
言葉の使い方というのは難しい問題だが、それを発している者の「立場」は重要な要素だと考えられる。一見正論に見えてもそれを言う者の立場が適切でなかったならば、その言葉は刃となり絆を断ち切ってしまうだろう。
大切なのは自分の観ている範囲だけでなく大局的に状況を判断して相手の立場を尊重すること…当たり前のお題目のようだが、それを実行できるならきとあなたは"英雄"になれるはずだ。
私にしたって"英雄"には程遠い。まずは当たり前のことを当たり前と認識することからはじめてみよう。To Be Continued.