いま、コハルについて考える
〇はじめに
こんにちは!こめこめくらぶです。
先日JNセレクションもひと段落ついて、いよいよJNシリーズもアニポケの歴史に名を連ねたという実感が湧いてきた頃でしょうか。
以前、JN62話「じめじめジメレオン」を足掛かりにゴウが伝えたかったことについて考察しました(残念ながらセレクションには選ばれませんでしたが…)。
そして、サトシについてはJNに限定したものではありませんが「サトシ編」の総括記事を書きました。
しかし、もう一つのJNの構成要素であるコハルについてはまだ詳しく語っていません。理由は様々あるのですが…、「いま」コハルについて語ってみようと思い立ちました。
本稿ではゴウの記事のように特定の話から掘り下げるのではなく、JN全体でコハル回がどのようなメッセージを視聴者に届けたのかに焦点をあてていきます。よろしければお付き合いください。
〇キャラ概要と足跡
まずはコハルについて基本的な情報とJNにおける足跡を確認しましょう。
コハルはアニポケJN(第7シリーズ)における登場人物です。家族構成としては父親にサクラギ、母親にヨシノ、弟のソウタを含む四人家族。癖っ毛が特徴で放っておくと爆発してしまうため朝にヨシノから結ってもらっています。
幼い頃から一緒に暮らしているワンパチに懐かれているものの、家族の中ではクールに接しています。スクールに通う生徒でありお花係を担当。友人もいますが、周囲からポケモン博士の娘として見られることには抵抗感を持っています。JNの主人公であるゴウとは幼馴染であり、お互いの性格などを良く知っている仲です。
49話にて進化研究所から逃げ出したイーブイを保護し、その後ゲットします。このイーブイは進化条件を満たしても進化しない性質を持っており、それが進化「できない」のか進化「したくない」のかは最後まで不明でした。
イーブイをゲットしてからはイーブイの進化形について興味を持ち、それぞれの進化形とそのトレーナーを巡ることになります(以後「ブイズ巡り」と呼称)。
そして、120話で家族でキャンプに出掛けた際にピッピの進化の光景を見たことで「進化」という事象そのものに興味を持つことに。JN最終話(136話)ではリサーチフェローを卒業するサトシとゴウの後継者となり、スクールに影響がでない範囲でポケモン調査を続けているようです。
〇コハルが示したもの
JNシリーズ全体を通してみたとき、コハルというキャラはどのように描かれ、どのようなメッセージを我々に与えたでしょうか?本稿では三点に絞って考えてみます。
①「いま、決めない」権利
キャラ概要でも触れたように、コハルの物語は周囲からの「ポケモン博士の娘」というレッテル貼りへの反発からスタートしています。
コハルはJN当初から「自分らしくあること」について自覚的でありながら、その反発の向かう先が親あるいはポケモンではないのが特徴的です。これまでのアニポケキャラは受け入れるにしろ、反発するにしろもっと直接的に「親」に向き合っていました。
例えばDPのヒカリはコーディネーターである母親の背中を追いかけて、XYのセレナはサイホーンレーサーである母親の押し付けに反発して旅に出ました。
しかし、コハルはそのどちらでもなくあくまで自分のことは自分で決定する自由意志に重点を置いています。「いま、すぐに」旅に出るのではなく、「いま、決めない」権利を行使することを選んだのです。
そして、そのようなコハルの思想を具体化する存在として「進化できない/しないイーブイ」と出会います。イーブイは遺伝子が不安定で環境の変化によって様々な進化先があるポケモン。
ある意味「環境」によって未来が決定される運命にあるともいえますが、コハルのイーブイはその不安定の度合いが大きく逆に進化できず/せずにいたのです。
コハルはイーブイの進化先体験として「ブイズ巡り」を敢行します。それは環境によって「いま、すぐに」未来を決定するのではなく、自分の意思で未来を選択するための行動。
②自分で選ぶ未来≠進化
アニポケ世界においては一つの定番テーマでもある「進化」。原作のRPGにおいては多くの場合において進化させることが当たり前の選択になりますがアニポケにおいては当たり前ではありません。
アニポケにおいてポケモンは意思を持つ存在であり、進化はポケモンに任せられるべきという思想が通底しています。それはサトシとピカチュウが切り拓いてきたものです。
ただし、サトシのピカチュウが早々に進化拒否という意思を固めたのに対してコハルのイーブイはその意思決定の手前にいます。コハルはそんなイーブイと自分を重ね合わせているようです。
そして、ブイズ巡りが終盤に入ると進化だけがイーブイの進む道ではないことが示されます。それはSMヒロインでイーブイ(ナギサ)のトレーナーであるスイレンの言葉によるものです。
「進化できない/しない」から出発したイーブイとコハルにとって、未来は「進化」そのものだったのかもしれません。イーブイは多くの進化先があるので「進化」だけでも多様な選択肢があるように見えますが、未来の数はそれ以上にあるのです。
③「子どもである」というリアリティ
コハルがシリーズ最後に辿り着いた境地はイーブイと共に「無限大の可能性」に向かって歩み続けることでした。
しかし、「無限大」というのは抽象的な概念であり実際の人生においては無限大の可能性から何かを選んでいくことが必要になります。人によっては「選ぶ」ことが「大人になる」ことだと言うかもしれません。
そのことについてコハルの母、ヨシノは次のように語っています。
無限大の可能性からいつかなにかを選ぶときがくるかもしれない…でもそれは「いま」ではない。そしてそれが許されるのはコハルが「子ども」だから。
人生において何かを選択するために、「子ども」のときに何を考えていくべきか。これこそがJNのコハルの物語において提示されたテーマではないでしょうか。
このテーマが殊更に意味を持つのは歴代のアニポケが培ってきた「子ども」観が少々特殊なことにもよります。アニポケ世界においてはたとえ10歳であってもポケモントレーナーは一人前の地位と責任を負っています。それは単純にバトルの資格を得ているというだけでなく、コミュニティの自治を任せられるほどまでに拡張されるものです(例:ポニ島の島クイーンハプウ)。
この価値観は地方やコミュニティにもよりますが、JN以前のシリーズであれば特に違和感もなく受け入れられていたはずです。しかし、JNではリアリティラインを引き上げることで「子ども」を「子ども」として扱う価値観を上書きしたのです。
コハルはリアリティラインのラインマーカーの役割を任せられていたと言えるかもしれません。そして、そのラインは次シリーズのHZにも引き継がれていきます。
〇新シリーズ(HZ)との接続
JNが終わってアニポケは新時代へ。主人公はサトシとゴウからリコとロイに引き継がれ、これまでと全く異なる物語が展開されています。ストーリーテリングの方法の違いもありますが、第一にはリコのキャラクター性によるものが大きいでしょう。
そして、このリコのキャラクター性は少なからずコハルと共通しています。最も核心的なのは自分が何者か決定していない「子ども」である点です。
新シリーズ(HZ)は不思議なペンダントや飛行船が登場するようなファンタジー要素が強く感じられる作風ですが、「子ども」についてのリアリティラインはJNと共通しています。少なくとも現時点でリコが何者であるかを決定することは物語的に求められていません。
子どもが子どもとして、未来を選択するためにポケモンと共に何をすべきか。この点に重心を置いて解釈することでHZのテーマ性も明確になるのではないか…と私は考えています。
〇おわりに
さて、そろそろこの語りも〆に入ります。コハルについては書こう書こうとはずっと思っていたのですが、中々いい言葉が見つからず記事にするのが遅れてしまいました。
何とか形にしようと思えたのは、コハルについて語ることがこれからのアニポケを観る上で重要な手掛かりになると考えたからです。単なる冒険活劇ではないところにHZの魅力はあり、そしてその魅力の背景にはコハルがいる。
実際のところ、コハルのことは好きでしたがコハル回については評価しにくい部分があったのが正直な気持ちでした。しかし、単発ではなく全体を通して、そして未来を見通してみたとき少し見え方が変わってきたような気がします。
皆さんが思うコハル/コハル回についてのご意見も是非お聞かせください。ご清聴ありがとうございました!
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