教育について思うこと
まずは、知識詰込み型教育について。
受験を突破させるため、次の学年に進学させるためにはテストが必要で、そのために知識をインプットしてもらう必要があり、短時間でできるだけ多くの情報を伝える知識詰込みが存在している。
しかし、知識詰込みに特化し、不要なものを極力切りつめたコンテンツは、面白くないし教育の本質からは外れているのではないだろうか。
(面白さや個性を最大限に出して情報をかみ砕いて伝えることは可能だが。)
自分が教師になるにあたって目指すべきは
できる限り生徒が自ら学ぶことを促進するコンテンツを増やすということ。
決して独りよがりの言動をしないように
常に生徒(受け手)の興味や関心に敏感になり
都度反応を確認して試行錯誤を重ねないといけないのだろう。
間違っても生徒を否定する発言や言葉は絶対的に避けなければならない。
昔と比べて、社会の中での学校や教師の相対的価値が低くなってきているという言説もあるし、実際そうかもしれない。
しかし、依然として学校は生徒にとっての最大の社会であり、その場に関わる大人(教師)は子どもたちの成長に絶対的な影響を日々与える権利を享受している立場だということを決して忘れてはいけない。
だからこそ、一過性の感情や自分自身の感情でパフォーマンスレベルを下げることをしてはいけないと思うのだ。
教師が感情を出すことがダメであるとか、
常に一定のテンションでいるべき、
とまでは言わないが、今自分がどのような状況かを把握して自分の表現をコントロールすることは大人として当たり前にすべきことでそれがプロフェッショナルとして最低限必要となのだろう。
エリート主義について
より偏差値の高い学校に進学することで得られるメリットは何か。
・学問に価値を感じて高みを目指す人(生徒や先生)と出会える
・コツコツと努力ができるという証明になる
・よりハイレベルな教育や研究に触れることができる
進学もあくまで人生の一手段でしかなくて
学校に合格することが目的化してしまってはいけないのだ。
勿論、決して簡単とは言えない受験を突破するためには、時にはそれが目的になる瞬間があっても良いだろうし、そうでなければ踏ん張れない時だってある。
でも、自分が本当に興味のあることは何かを考える暇を与えることなく
学歴厨を極めさせる洗脳教育、は見直すべきなのではなかろうか。
学歴厨がダメだとか、そういう話ではなくて社会に出たら全然学歴がすべてじゃないフィールドも存在しているということを伝える大人がいるべきだと思うのだ。(立場の違う人からでもよい)
教師だけが生徒と関わるのではなく
起業家やビジネスマンが授業をする機会があれば
もっともっと生徒の視野は広がるだろう。
公務員教師は生徒が進学する大学の偏差値よって給料が変わるわけではない(と信じたい)ので、それが本当に彼らの人生にとって良い選択なのかを最重要視して接してほしい。。。自分はそうしたい!
少なくとも、本人が「なぜそこに行きたいのか」を言語化できる程度でないと後々になって後悔したり彷徨ってしまったりするのは生徒自身なのだ。
できるだけ多くの大人が支えられる状況下で悩んでほしいし
人に助けを求める経験を学生時代にできるか否かは非常に大きな経験の差になってくるように思う。
家庭環境
子どもの成長において
親の考え方や価値観は非常に大きな要素だとつくづく感じる。
実際、学歴を求める親の子どもは学歴を求めるようになることが多い。
学校で良い成績を取ることが人生において正しいことで
親が喜ぶことで
模範解答だと思っている。
特に日本社会は、学ぶ(まねぶ)ことがよしとされていて他の人と異なることをする人に対して排他的な風潮がある。
周囲の雰囲気を読み取って期待に応えるという能力も素晴らしいが
結果としてそれは個を没落させてしまう原因になるのだ。
少子化が進行し、一人一人に活躍してもらう必要がる時代と謳っているにも関わらず、以前として一部のエリート層向けの集団教育を行っているのはいかがなものか。もう一度、優秀な人材・多様性の意味を問い直したい。
親ガチャ
子どもは親を選ぶ権利がない。
その点、親ガチャとはよく言ったものだと思う。
金銭的な需給関係があるという点では
パトロンと芸術家と同じ構造だけど。。。
親というパトロンが子どもの表現を指定することは本当の愛や優しさではないと思う。
そんなことを考えると、親という立場になることがますます怖くなってしまう。。。(+_+)
でも一つ言えることとしては、自己実現を目指して主体的に人生を設計している親が身近にいたら、子どももその姿勢を見ているということ。
決して親だからといって、子どもに依存しすぎてはいけないし束縛されてはいけない。一人間として保つべき距離感を間違ってはいけないのだ。
結局、人生の勝ち組って・・・?
しかし、結局人生には正解も不正解もないし
誰かのまねをすることが幸せになるわけでもない。
自分と向き合い続け、自分にとって正しいと信じる挑戦することをやめない人こそ、人生の勝ち組だと思うのだ。