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人魚

築57年の実家が、一週間後に解体される。

「お母さん、ご近所の方々へのご挨拶一緒に行こう。」

老人ホームへ転居した母親へ電話した。

「そうね。お世話になったから、よろしくお願いします。」

91歳になる母親と、行動するのは、時間に余裕のある日でなければ出来ない。
一つ一つの行動は遅くて、会話も同じことを何度も説明しなければ進まない。

「大変お世話になりました。もう、素晴らしい施設を探してくださって、カンダンボウダンビなんです。」

私は、笑いをこらえた。

「カンダンボウダンビ」

ご近所の方々も高齢なため、何も気づかない。

「カンダンボウダンビ」

何度も何度も言っている。

「カンダンボウダンビ」

笑いをこらえることが、こんなにも辛いとは知らなかった。

たぶん、冷暖房完備のこと。
私が、母親へ冷暖房完備と伝えたところで、母親も、近所の方も気づかない。

施設へ帰る前に、食事をすることにした。

少しだけ特別な日になるように、青空が透き通るように見えるカフェへ行って、ワンプレートランチと、ブルーのクリームソーダを注文した。
母親は、子供のような笑顔で喜んでくれた。

「こんな素敵なところ、私、初めて」

この言葉は、とても失礼な言葉だということに、母親は気づいてない。
私は、いろいろなところへ食事に連れて行っている。
そのたびに、この言葉。

「素敵」

「初めて」

私も、笑顔で

「良かった〜。」

サラダとキッシュなどがのったワンプレートが、目の前に置かれた瞬間、91歳の母親は、携帯電話をカバンから取り出して、パシャッ!写真を撮っていた。

「後でね。ゆっくり見るの。」

まるで、乙女のよう。

「お母さん、お父さん亡くなって5年ぐらいかな〜。あの家って、お父さんと考えて建てたお家なんだよね。」

母親は、頭を横に振って、

「お父さんが、勝手に決めて買ったのよ」

私は、納得した。
あまりにも、乱雑な家で、施設へ入る時も、家を片付けるということは、していなかったので、母親は、家をどう思っているのかと、疑問を感じていたからだった。

「お母さんって、お父さんと恋愛結婚だったの?」

嫁の私から、聞かれるとは思わなかったのか、かなり戸惑った様子だった。

「私ね。好きな人がいたの」

女子トークのような言葉に、こっちが戸惑った。

「その人には、婚約者がいて、わかっていたけれど好きになってしまったの」

心の中で、(人間って環境によってこんなにも変わるの)と、呆然と母親を見てしまった。

「東京から来た精神科の先生で、とても穏やかで優しい先生なのよ。たまにね。
東京から、先生のお母様がいらして、紹介されたりもしたわ。」

私は、笑顔で話しを聞いていた。
母親は、当時病院で勤めていた時の記憶を、楽しそうに話し始めた。


「お母さん、いつもお世話になっている。事務の京子さんだよ。」

「あら、お綺麗な方ね。いつも、お世話になっております。」

とても、品の良いお母様だった。

私も、品よく振る舞わなくてはと感じた。

「もう、イヤ!」

計算が合わないと、初めからやり直し、そろばんで、何度も何度も、

「バジャンッ!」

そろばんに、当たってしまう。

「京子さん。」

品のいい静かな歩き方で、先生が近づいて来た。

「大変なお仕事ですね。私も、まだ仕事があるので、終わったら、一緒に帰りましょう。」

その優しさが、嬉しかった。

「知らないもの!」

「知らないもの」

「知らない〜もの」

私が困っていると、先生は一緒に考えてくれた。

「京子さん、知らないのなら、知らないで覚えればいいですよ。語尾に、ものを付けると、相手の方が不愉快になります。」

先生から、言われて気づいた。
母親の口癖を、私は無意識に使って、相手を怒らせている。

「知らないもの!」

「あっ。」

また、言ってしまった。

「知らない。」

先生は、優しく教えてくれた。

「知らないです。」

「知らないです。すみません。」

「知らなかったです。」

「知らなかったです。ありがとう。」

「知らなかったです。ありがとうございます。」

先生の言うことは、素直に聞いてしまう。
そんな、自分も好きになれた。

ずっと、気になっていたけれど、言い出せなくて、

「先生は、木が、お好きなんですか?」

いつも、窓の外にある大きな木を見ているから不思議で、勇気を出して聞いてみた。

「そうですね。好きなのかなあ。」

と、優しい笑顔で木を見つめて、

「あの方は、私に、木にも感情があるというから、どう言うことなのかと考えていました。」

あの方というのは、婚約者のこと。

木を見つめている時に、先生が考えていることは、あの人のこと。

「先生、感情ありますよ。」

先生は、とてもびっくりしていた。

「風にあたって、雨にさらされたり、太陽に照らされて、新たな葉をつけて、きっと、叫んでますよ。こっちを見てって。」

言ってしまった。
時が、止まったように感じた。

「そういうことか。」

先生は、納得して考えていた。

「だから、美しいのですね。」

すごく納得して、

「京子さん、ありがとうございます。風に吹かれて輝く葉は、雨に濡れて葉につく雫が、美しい理由が分かりました。」

私は、涙があふれて止まらない。
どうして、いつも冷静でいられるのか、わからなかった。
何があっても、優しい笑顔。

「もう 、いや!」

私は、発狂した。
どこかから、声が出ているか、全身から叫んだ。





     続く
















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