あの日を忘れない、ということ

先日3月11日、東日本大震災から12年でした。

現在は仙台に住んでいて、小1の息子は、小学校で震災の当時の様子を見聞きしたようです。
防災マップと称して震災当時の体験談が載ったリーフレットも配布されました。

小1なので、もちろん当時は生まれていません。
クラスの中には泣き出す子もいたとのこと。

ああ、そうだ。
こうやって、あの日を忘れないよう、風化させないよう、地元は動いていくんだ。

地元は動いていくんだ。



母である私の地元は広島です。
高校を卒業するまで、広島から出たこともありませんでした。

大学に入って驚いたのは、平和教育と思って生きてきたことの
他県の人とのギャップでした。

原爆投下日時を言えない、知らない

終戦記念日を知らない


今でこそ、刷り込みだと理解していますが
在学中は、生きてきた道こそ当たり前
「知らないってどういうこと?終戦記念日も?
むしろ、ヒロシマだけじゃなくナガサキも言えるよ?」

就学前の保育園時代から
夏に入ると平和学習が行われていました。
折り鶴をおる意味を教えられ、毎年折って、原爆ドームへ届けるリレーに参加していました。
『青い空は』という歌、唄ってました。

小学校に上がり、当時は規制も今ほどあったわけではないので
空襲の様子、子どもが虐殺される瞬間、など
夏には体育館で、上映会がありました。
夏休みの宿題の冊子には、毎年なんらかのエピソードが載っていました。

中学になっても、夏休みの登校日は平和学習
当時は劇団の平和公演を見た記憶があります。
『父を返せ~、母を返せ~』


当たり前だと思っていた夏の平和学習
積み上げられた戦争の記憶は
幼少期から10年以上もの間、蓄積されたものでした。

根底には
忘れてはならない
原爆を二度と使ってはならない
地元から発信し続けなければならない
といった想いがあります。
原爆に偏った平和教育であったとは思いますが
幼少期の記憶は、トラウマにも近いものに成りあがっているのもまた事実。

ヒロシマに原爆が投下され第二次世界大戦が終戦を迎えて
当時は戦後50年とか60年とか、2023年の夏には78年

東日本大震災から12年
津波の被害は広範囲で、地震の被災の状況もこれもまた広範囲

10人いれば、10通りの
人それぞれの あの日 があって
あの日の地元にいる以上、忘れないため、地元は動いていくんだ


願わくば
私が大学在学中に感じた地元と地元以外の温度差が少しでも減りますように

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