地上波から視聴者参加型討論番組が消えた
かつては、NHKをはじめとする、さまざまな局で視聴者参加型の討論番組が見られた。
けれども、昨今では、「専門家」や「有識者」が参加する討論番組のていを取る番組は見られるものの、視聴者の参加する番組は見られなくなってしまった。
SNSや、このnoteのように、自ら発信できる機会が増えたことが要因のようにも思える。
しかし、討論はコミュニケーションであり、発信することとコミュニケーションは全く異なる。誰も聞いてなければただの独り言だ。
そもそもコミュニケーションは、他者を理解するためにある。他者とは、自分の立場の違う人のことだ。もっと言うと、あいつ嫌いだ、と思う相手のことだ。
討論が減ることは、他者を理解する場が減ることに他ならない。
深まりつつある分断をとめるためには、討論、すなわち、コミュニケーションは必要だ。
例えば、下記のような言説はしばしば見られるのだが、
では、誰かと議論しようとはならないのだ。自分の言いたいことを言ってそれで終わりなように見える。そして、この書き手は、かつて、この国にたくさん討論番組があったことを見落としている。
なぜ、討論をしなくなったのか?
なぜ、コミュニケーションを拒むようになったのか?
社会というのは他者の集まりである、という意味で、常に分断しているのはそうだろう、と思う。
しかし、他者を理解する場が減ることは当たり前ではないし、正当化すべきことでもない。民主主義国家と言っているのだから。
コミュニケーション不全に陥っている社会に必要なのは、コミュニケーション、つまり、討論の場ではないのか。
なぜ、コミュニケーションを拒むのか?
ひとえに、コスパが悪い、もっといえば、端的にめんどくさいからだろう。
そのめんどくささが、後述するように、割れ窓を増やし続けているのだ。