シューマンの指/奥泉光
✳️本記事は2021年5月にアメブロで投稿した内容に基づいています
作家・奥泉光 (1956-) がシューマン生誕200年の2010年に執筆したミステリー作品。テーマが「シューマンのピアノ曲」であり、特に「幻想曲 ハ長調 Op.17」から物語が展開してゆく内容に魅せられたのだった。
実際、「幻想曲」についての描写は全ページの中心に位置し、物語のキーパーソンであり根っからのシューマニアーナである「永嶺修人」が夜の音楽室で弾いていたのがこの作品で、それぞれの楽章の分析と周囲の状況の推移が並行に語られてゆき、全楽章弾き終わったと同時に殺人事件が発生するのである。僕としては大好きなこの曲が「殺人ソナタ」のように扱われるのが微妙な心境なのだが―。
ポゴレリチによる2014年ライヴ。40分以上かける異様な演奏だが、独特の読みが興味深く、唯一無二のシューマン/幻想曲が聞ける。
当時学生であった主人公の「私」は憧れである「永嶺修人」と知り合うにつれ、彼の音楽論、とりわけシューマン論に影響を受ける。そしてついに「ダヴィット同盟」が結成され、「新音楽時報」まで発行されることとなる。そして前述の「幻想曲の夜」に、鈍い響きの悲鳴が発せられるのである―。
話が進むにつれ、徐々に「永嶺修人」の本性(二面性)が明らかにされてゆく―それはシューマンの「二面性」を思わせる。この時点で「私」には、そして僕たちには犯人の目星がついてくるが、もちろんその期待は裏切られ、二転三転する。まさに「三回転ジャンプ」を作者は決めてしまう―「ラスト20ページ 」がそれに相当する。もっとも本当に「決まった」のかどうかは読者の判断に委ねられるだろうけど。
小説そのものは「手記」のカタチをとり、すでに社会人となった「私」こと「里橋優」が友人から受け取った不可解な手紙から始まる―かつて「私」の眼前で、皮一枚で繋がっていた指を自ら引きちぎり、暖炉の火の中に投げ入れた「彼」が(明らかにそれは「指の故障」のメタファーだろうし、「精神疾患」をも暗示していることだろう)、シューマン/ピアノ協奏曲を弾くのを目撃した、という内容だったのだから。そして回想のカタチでエピソードが語られてゆくのである。
クラシック音楽に精通している方々であれば、多くの演奏家の名前や作品がどんどん登場するので、ワクワクするに違いない。中でもシューマンに関わる指摘が多いのは当然で、その点では看板に偽りなしである。ただ、「ラスト20ページ」で判明することだが、本書のタイトルには仕掛けが備わっているのだ―。
「永嶺修人」が「私」と交わす音楽論の中で、僕が興味を引いたのは「グールドが何故シューマンをほとんど弾かなかったのか」という話題である(それゆえか「彼」はグールドを毛嫌いしていた)。実際、グールドはシューマン/ピアノ四重奏曲の録音しか残していないのだ。「自分はどうしようもなくロマン派だ」と述べ、ブラームスのロマンティックの極みのような「間奏曲集」を録音しておきながら、である。
「ダヴィッド同盟舞曲集」のスコアを見ながら、「彼」は「私」に言うのだ―。
ジュリアードSQメンバーとのシューマン/ピアノ四重奏曲。冒頭にシューベルトのような夢幻性を感じる(思えばシューベルトもグールドは弾いていない。僕は音楽の構造のせいだと思っている)が、ピアニズムには彼独自の個性がしっかりと刻印されている。特にフーガが始まるフィナーレは水を得た魚のよう。
「永嶺修人」と「私」の個人レッスンがスタートし、「シューマン/謝肉祭」が課題曲として挙がる―。
参考として「彼」はケンプ盤を手渡す。最初の曲から「フィナーレのようだ」と言い、「それが終わってから、ようやく (本題の) 謝肉祭が始まる」とレクチャーするのである。
実はこの解釈に既視感があった。その感覚は、本書の最後にある「参考文献」の中にミシェル・シュネデール/「シューマン 黄昏のアリア」が載せられていることで腑に落ちたのだった。
ウィルヘルム・ケンプの演奏で「謝肉祭」~第1曲 「前口上」(Préambule)。この曲は「真のフィナーレ」の直前にも再現される。
「私」が「永嶺修人」によるシューマンの演奏を直接聴いた体験が「三度」あったことが、その都度執拗に述べられる。ちなみにそのせいもあってか、作品についての詳細が他の曲よりも多く述べられている。
一度目は「幻想曲 ハ長調」。殺人事件が発生したあの夜に音楽室で弾いていたものだった。「私」はそれを偶然忘れ物を取りに学校に戻ったタイミングで隠れるように聞いたのだった。
二度目は「ピアノ・ソナタ第3番ヘ短調」。それはジュニアコンサートでの演奏だった。「私」は打ち上げの会場で「彼」の演奏を「音楽がない」と批判する。
三度目はシューマンが清書した最後のピアノ曲とされる「天使の主題による変奏曲」。同盟メンバーで宿泊した別荘で聞いた曲だった。ここで「私」は長い間胸に秘めていた疑惑を「彼」にぶつけることになる。
(予想通り) 自白が聞かれたとき、「彼」のガールフレンドがナイフを持って迫る。指がダメになった「彼」は驚くべき仕方で自ら「終止符」を打つのだ―。
手記を閉じるにあたって「私」は何十年かぶりにCDを購入したことに触れる。それはアニー・フィッシャーが弾くシューマンのディスクであった。そこには「子供の情景」「クライスレリアーナ」そして「幻想曲」が収録されている。
こんな風に手記が日付つきで綴られ、一応終わりを迎えるが、勿論これはフェイクで偽終止に過ぎない。
ここから「ラスト20ページ 」の解き明かしが始まる。実際、まだ冒頭の「謎」は残されているからだ。
「私」は手記で展開された内容に僅かな齟齬を見出す。そして再びペンをとる。記憶をたどり、発見したかすかな違和感に気づき、点と点が結ばれた時、真犯人と共犯者の姿が立ち現れる。「彼」は共犯者の1人だった。暖炉に投げ捨てた指もフェイクだったのだ。音大を卒業し、ヨーロッパに向かった「永嶺修人」のシューマンのコンチェルトの演奏を聴いた友人が驚いて手紙を送ってきたのだ―。
ただ、僕たちは気づく―何か釈然としない感覚を。
異様に熱のこもった仕方で、シューマンの新解釈を述べ立てる「里橋優」の姿に―。
真の解き明かしは「私」こと「里橋優」の妹の突然の手紙から始まる―。
兄が失踪した旨が最初に語られる。実はこの手紙とともに上記のメモも同封したこと、それが失踪直前に書かれたことを告げる。この手紙の宛先は「真犯人」に対してだった。
そして驚くべき真実が告げられるのだ―。
真実の状況と自供のお願いが続いた手紙の結びには、妹が誰にも言っていない「あるもの」を兄のマンションで見つけたことが記されている。それは防腐処理が施された兄「里橋優」の「指」であった―。
僕としては、作者は見事に三回転ジャンプを決めたと思う。シューマンの音楽を愛好しているという作者だからこその結末だと感じる。
再度「タイトル」に注目していただきたい―。
「シューマンの指」
実はこれが既に解答であったのだ―。
「シュー(修)マン (人) の指」
これはフモール的なジョークだろうか―。
そうではない。
「里村優=永嶺修人」がこの世に残した生きた証であったのだ―。
シューマン最後の歌曲となった「メアリー・スチュアート女王の詩」 Op.135。全5曲すべてが短調。しかも第3曲目を除き、ホ短調で書かれている。テーマは「別れ」(abschied)だ―。
今月6月8日はローベルト・シューマンの誕生日。
ちなみに奥泉光氏と僕は同じ誕生日 (2月6日) である。