危篤と父が亡くなった話
今年は命日反応が強く、
noteにも時間がかかってしまいました。
長文の為、3パートに分けています。
重複部分も多いのですが
宜しければ最後までお付き合い下さい。
父が亡くなった時と葬儀の話。
(故人のプライバシーに配慮しながら書いています。
身バレ防止の為、曖昧な部分はそのままに。
一部フェイクあり)
ベビーカステラを密輸してから数日後、
早朝、病院から電話があった。
『先生からお話があります。13時に来院して下さい』
そのように言われたのだが、余りに早朝だった為
『病院にLINEして下さい』と取り違えてしまった。
振り返れば、病院とLINE出来る筈もないのだが
『先生から電話が来るのかな?』くらいに構えていた。
その時はまだ、密輸のことがバレたのかな?と思っていた。
父の余命宣告をされるとは、夢にも思っていなかった。
昼食を済ませ、13時に待機していると病院から着信が。
『先生がお待ちです』
と言われ、そこで初めて私が行かなくてはならなかったと知った。
慌てて病院に行くと、病棟のナースステーションに案内された。
そこで先生から父が軽い肺炎を起こしている、
悪ければ今夜にでも亡くなってしまう可能性がある
と言った旨を告げられた。
万が一の場合、延命についてどうするか、妹さんと話し合って下さい
と、延命についての用紙を渡されたが、実感がなかった。
HCUに移動するので、病室の荷物を持ち帰るように言われたが
『お父さんは元気になる為に入院した』
『HCUに入れば、回復するんだよね?』
と云う気持ちの方が強かった。
荷物を持ち帰る前に、特別に病室(数人部屋)への入室が許可された。
最初は私。
久し振りに見る父は、発熱しているとのことで
私が差し入れたばかりの夏用のパジャマを着ていた。
リバーザーと云うマスクを着けられ、苦しそうに息をしていた。
『お父さん、どうしたの?』
ほんの少し前、本人がオムツを拒否するので、
リハビリ用パンツを差し入れるよう、連絡があったばかりだった。
私の頭の中で、父は徐々に、
自力で歩けるようになっているとばかり思っていた。
『お父さんが居なくなったら、私、一人になっちゃうよ?』
頑張れ、と云う言葉の代わりに、父性を奮い立たせようとしていた。
父の志も半ば。
家業の引継ぎも終わらない内に、こんなのは夢でしかないと思っていた。
『アンタ、家のお金はあるのか?大丈夫か?』
マスクの下で、父は切れ切れに告げてきた。
『心配しなくても大丈夫だよ。しっかりね』
短い面会時間の中で、交わした言葉。
その後の説明か何かで、叔母と入れ替わるように病室を出た。
『ねえちゃん、何か、面白い話して』
叔母に告げた、最期の言葉。
それだけでも、父がどれ程、苦しかったかがわかる。
時差で父の妹も駆け付けてくれたが、面会は叶わなかった。
私は父の荷物を数回に分けて車に運び、
病院まで駆け付けてくれた叔母たちへとお礼をする為、お茶に誘った。
現実味はまるでなかった。
頭の何処かに『父は大丈夫』と云う気持ちがあった。
叔母たちとも深刻な話はしなかったと思う。
何かあったら連絡します、と伝えて、カフェで解散した。
◆
翌日も早朝に、病院から電話があった。
電話に出ると
『病院に来られますか?』
『お父さんの容体が良くありません』
と言った説明をされた。
その日、バイト先のシフトが少なくて、
店長に連絡しないと…が一番最初だった。
『お話したいことが』
とLINEすると直ぐに既読が付き、通話の許可が下りた。
『実は、父が危篤でして』
自分でも驚く程に冷静だった。
店長も始めは『うーん』と唸っていたけど、
暫くしてから『仕方ない、どうにかします』と言って下さった。
次に叔母たち、妹。連絡だけ済ませると、
必要最低限の身支度をして病院へと向かった。
最初はHCU手前の待合室で待たされた。
延命について、姉妹で意見が分かれていることを伝えると
後々の為にも、足並みを揃えて下さい、と言った旨の説明を受けた。
意識レベルが下がっている。
延命しても助かる見込みは薄い。
今なら、夢を見ているような感じで逝く事が出来ますよ、とも言われた。
いよいよとなったのだろうか。
やはり特別に、HCUへの入室を許可された。
カーテンの向こうには、別の患者さんの気配も感じる。
『お父さん』
小さな声で呼びかけると、目蓋が動き、二度ほど瞬きをしてくれた。
周りには誰も居ない。
(これが最期になるかも)
咄嗟にそんなことを想い、スマホを取り出し、録画釦を押した。
『お父さん、頑張れ』
後に笑い話にでもなれば良い。
あの時は、こんなだったよ…と。
一部の望みを託して、録画を続ける。
『頑張って』
願いを込めて呼びかけたが、父の目蓋が開かれることはなかった。
(私のこと、お母さんに見えたかな)
HCUを出て、そんなことを思った。
母が亡くなるまでの数週間、看取りをさせて下さった病院だ。
その時、泣きながらも家族を支えてくれた父が居なくなってしまうなんて
考えたくもなかった。
『もどれ』
『もどれ』
三階行きのエレベータに乗る度、何時も口にしていた。
同じ言葉で祈りながら、叔母たちの到着を待ち望んだ。
叔母たちが到着して間もなく、父の心肺が停止した。
延命用紙には『延命措置を希望しない』と記していたが
その時がきたら、『延命して下さい』の言葉が出てしまった。
何故なら、母が搬送された時も、父は同じように頭を下げたからだ。
『0.001%でも、可能性があるなら延命して下さい』と。
後に取り出したサマリーにも記されている。
助かる見込みはないけれど、ご家族の希望ならやりましょう、と
主治医は仰って下さった。
それから三十分間、父は苦しかったかな…
先生方が尽力して下さったが、父が戻ってくることはなかった。
HCUの入室が許された時、父はもう息を引き取っていた。
『お父さん!』
『〇〇!』
叔母さんたちも名前を呼んでくれたけど、父が応えてくれることはない。
『お父さん!お父さん!』
他に患者さんが居ることも忘れて、泣き叫んでしまった。
途中で、『同じ部屋で人が亡くなるなんて嫌だよね』と思ったけれど
それよりも悲しみの方が強かった。
『お父さん、頑張ったね。お父さん、ありがとう』
『〇〇、お疲れ様。頑張ったね。偉かったよ』
父の家系はシャイで、叔母さんたちとも他人行儀なところがあった。
それでも、
妹の叔母が肩を抱いて『仕方ないよ』と慰めてくれたのを覚えている。
母を荼毘に伏す際に、
糸が切れたように泣き出した私に父が掛けてくれた言葉だ。
『お世話になり、ありがとうございました』
泣きながら先生たちにお礼を告げた私を、待合室へと連れ出してくれた。
(妹に連絡しないと)
妹は日勤だったが、
勤務先に事情を話し、電話に出られるようになっていた。
直前まで『やれる事はフルコースでやって欲しい』と言われていた。
電話を掛けると、数回のコールで応答があった。
『どうなった?』
『お父さん…駄目だった』
『嘘…、』
私の涙声で察したのだろう。
通話越しでも動揺が伝わって来た。
三十分間蘇生して頂いたが、戻って来られなかったこと。
解剖については先生が乗り気ではない等の話をし
『仕事中だし、気をしっかり持ってね』と通話を切った。
先生から、死因についての説明を受けた。
解剖について訊ねられた際
『解剖したらワクチンが原因とわかりますか?』と質問したのだが
『ワクチンが原因だと100%突き止められるかと云えば難しいです』
と言った旨の説明をされ、
それなら『しない方が良い』の判断になってしまった。
(個人的にはしておけば良かった、の後悔があります)
次に葬儀屋さんへの連絡だ。
母の時にも、私がその役目を担っていた。
母の時、最悪の事態は考えていない、と言っていた父だったが
息を引き取って直ぐに『〇〇が良い』と告げてきた。
聞けば、父の兄が亡くなった時に綺麗だったから、とのこと。
父の入院中、
父の部屋で見付けた(見付け易い場所に出ていた)エンディングノートにも
『お父さんが亡くなった時には〇〇斎場の◎◎さんに連絡をとる事』
と、連絡先まで記されていた。
父のスマホを見ると、連絡先も登録してあった。
◎◎さんは母の時に担当して下さった方だ。
友達と同姓同名なので、ずっと覚えていることが出来た。
やはり後から知ったのだが、母の葬儀後、父は斎場の会員になり
イベントなどがあると◎◎さんに会いに行っていたらしい。
エンディングノートを作ったのも、◎◎さんの勧めだったと知った。
『お久し振りです。〇〇の娘です』
掛け放題だった為、自分のスマホから連絡した。
◎◎さんはハキハキした声で
『お久し振りです。お変わりありませんか?』と応えてくれた。
『実は今、〇〇病院に居るんですけど…父が亡くなってしまって』
『……え?』
電話の向こうで、◎◎さんが絶句するのが判った。
『父のエンディングノートに、
自分の葬儀は、そちらの◎◎さんに連絡するよう、書いてあって』
淡々と説明すると
『そうなんですね…お父様のお悔やみを申し上げます』
絞り出すような声で、◎◎さんが言った。
『そちらに係の者を向かわせますね』
その時に、エバーミングの説明を受けた。
母の時には自分たちで身体をお清めし、死に化粧も施させて頂いたのだが、
ご時世もご時世だし、それが主流とのことだった。
来院時間を聞き、その間に母方の兄弟にも連絡する。
皆一様に『ええ!?』と言った後で、
『あねちゃんは大丈夫?お葬式がわかったら教えてね』
と電話を切った。
次に、係争中の担当書記官。
不良債権について争っていたのだが、
原告死亡の場合には相続が終わるまで裁判が中断される、
最長で10ヶ月と言われ、無念過ぎて泣いてしまった。
次に、父が紹介してくれた税理士さん。
お会いしたのはほんの3ヶ月前。
父が亡くなってしまったこと、
相続が終わるまで係争が止まってしまうこと。
泣きながらお話すると、先ずは弁護士の先生を探すこと。
相手が乗り込んで来ないように、警察にも相談すること。
と、アドバイスして下さった。
次は、父がお世話になっていた不動産屋さん。
父が亡くなったと告げると開口一番
『私、お父さんのお金を立て替えてたんですよね』
の言葉を吐かれた。
『いくらですか?』
『数十万』
『何も聞いてませんが』
『娘さんには心配かけさせたくないから、
内緒にして欲しいと言われたんで』
お父さんだと思って、信用してお貸ししたんです。
お父さんとは長いお付き合いなので。
その言葉に、『葬式泥棒』の言葉が思い浮かんだ。
後に聞けば、借用書も何もなかったらしい。
妹が
『そうした場合にはナースステーションで代筆の手もありますよね?』
と詰めたのだが、結局、弁護士さんに依頼するにも同じ金額が掛るとのことで自分なりに書面を作成し、領収書を切って頂く形で解決させた。
母の時も、ずっと仲の良かったお友達が、葬儀には来なかった。
不動産屋だって、父の人の好さに甘えて来たのを知っている。
(父は仕事だって紹介してきた)
父を亡くした悲しみや怒り、寂しさとやりきれなさで混乱していた。
叔母たちを見送り、一人、霊安室へと下りた。
指定された時間に、斎場の方が来て下さっていた。
父が乗せられた車を、主治医と看護師さんが頭を下げて見送って下さった。
私はどうやって家に帰ったんだろう。
その時、何を食べたのかも覚えていない。
転院する時、後部座席に乗せて来た父がいない。
後部座席から身を乗り出して話し掛けてくる父がいない。
車椅子を借りた場所。
花火大会やお花見に来た公園。
私を溺れさせたプール。
父はいない。
父がいなくなってしまった。
思い出の場所を通る度、涙が溢れて止まらなかった。
現実味のないまま、自宅へと戻る。
父を迎え入れ、葬儀屋さんと打ち合わせをする為。
この体験は2回目だ。
10年前、母が亡くなった時、施主は父だったが
ショックが余りにも大き過ぎて、実質的に動いたのは私だった。
『本人の希望で家族葬にしたい』
母の時はまだ、組内が手伝うのが主流だった。
その時、組内の人に頭を下げてくれたのは父だった。
頼りない面もあったけど、父は私たち家族を護ってくれていた。
一家の大黒柱は、間違いなく父だった。
(しっかりしないと)
その時の心境は、それが一番強かった気がする。
私たちを護ってくれた父はもういない。
自分がやらなければならない、その気持ちが一番大きかった。