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荼毘、納骨、お別れの言葉
私は多分、肉体の喪失が一番堪える。
母の時も、釦を押す瞬間に、
『お母さんが居なくなっちゃう』とよろめきながら泣いてしまった。
火葬釦を押す父は『仕方ない』と毅然としていたが、
誰よりも泣き叫びたかっただろう。
私には釦を押すことが出来るだろうか…
その恐怖を察知したのかわからなかったが
父の時には係の方が釦を押して下さった。
扉の向こうに、父の棺が消えていく。
『お世話になりました』と頭を下げるのが精一杯で、
私は火葬場の外へと飛び出した。
外にはオレンジ色の秋桜がたくさん咲いていた。
家族みんなでドライブした道路も見える。
自分でも良くわからない感情に支配されて、声を上げて泣いた。
大人になって、こんな大声で泣くことはあるんだろうか。
自分でもそう思うのに止められなかった。
気が済むまで泣き続けてから、漸く建物の中に戻った。
待合室では斎場の方と、親戚が待ち受けていた。
ここでは、精進落としの数を聞かなくてはならない。
用意されていたお茶を振る舞うのも、家族の役目だった。
親戚とは父の思い出話、近況、これからのこと。
いろいろ話をした気がする。
従兄弟たちは顔や体系が似ていて、間違って話し掛けたりもしていた。
やがて骨になった父と対面した。
火葬場の方が、作法と共に骨の部位を説明して下さる。
父の骨は余り残ることのない、鼻の奥が残っていて珍しい。
感動してグスグスすると直ぐに鼻を啜っていたから、
鍛えられて残って居たのかな…
白くて綺麗な仏様ですよ、と褒めて頂いて、
悲しかったけど、少しだけ嬉しかった。
私の家は即仏の宗派なので、四十九日を待たずに納骨となる。
帰りのバスが最初に向かった先はお墓だった。
火葬場からお墓に行く途中、故郷の山々や川が見える。
何処からか蜻蛉が迷い込んできて、終始和やかな雰囲気だった。
母の時には迷ってしまったが、月命日には必ずお参りに来ているお墓。
私よりも先に必ず飾られていた花は、
父が歩けなくなってからは途絶えてしまったものだ。
親戚みんなでゾロゾロとお墓に向かう。
お墓の係の方は『本日で三体目の仏様です』と挨拶をした。
火葬場にしても不思議なものだな…と思ったのを覚えている。
すっかり忘れてしまっていたが、骨はお墓の中に散骨だった。
パンフレットを見て一生懸命に選んだ骨壺は、ほんの一瞬で役目を終えた。
母の時にはピンクのお花が多かったからか、
お骨もほんのりピンクに見えていた。
父は白い花が多かった所為か、白いお骨だったと思う。
身体は華奢だったけれど、両脚の骨は太くて立派だった。
◆
あれだけ父を泣かせた痛みや痺れ、脱力の原因は何だったのか。
今となって確かめる術はありません。
解剖すれば良かった…の後悔もずっとありますが
病院やお医者さんがワクチン死に否定的である以上
意味が無いと思えたのも、また事実です。
そもそも、ワクチンが原因では?と訴えたところで
調べる気や手立てがない以上、
因果関係を証明することは不可能に近いのでは、と思えてならないです。
治験中なら、追跡データを取るべきだと思いますし
後遺症や死亡のリスクや事実を、もっと大々的に知らせるべきだと
今でもそのように思っています。
(最近、久し振りに再開した友達も
被害を把握しているなら、厚労省が何かしらの対策を取るのでは?
と云う感想でしたし、父が亡くなる前の私も、同じように考えていました)
父が亡くなって三年が過ぎ、
無我夢中で被害や予防接種健康被害救済制度の周知に努めてきましたが
父の命日を期にXをお休みさせて頂きます。
しばらくは心身を休め、父の死を悔やみ、
これから先のことを考えて行きたいです。
また、父が救済認定されたことが終わりではないので
同じようなご遺族、被害に遭われた方、審議結果を待つ方の為に
自分に出来ることはしていきたいと思っています。
救済制度が申請出来なかった時からアドバイスや応援して下さった皆様、
父の漫画を描いて下さった千代さんや、拡散して下さった皆様、
一緒にアンチと闘って下さったり、応援して下さったり
喜怒哀楽を共有して下さったご遺族仲間やフォロワーさん達の存在に
どれだけ救われ、励まされてきたかわかりません。
ある時期から返信が間に合わず、コメント欄も閉じてしまいましたが
それでもリポストやDMを下さった方、
時に、冷静沈着なアドバイスや叱咤激励も、本当に有難かったです。
noteは節目節目に更新していこうと思いますので
良かったら時々、覗いて頂けましたら幸いです。
志を同じくする方々の草の根には
これから先も、参加させて頂ける機会があればと思っております。
こちらも、もう少し先になってしまうかもしれませんが
漠然とそのように思って居ます。
最後に、父へのお別れの言葉を挨拶と代えさせて頂きます。
今まで本当にありがとうございました。
2024年10月2日(水)
あね
【2021年10月・施主弔辞】
妹へ
離れて暮らす妹のことを、父はいつも気に掛けていました。
夏に病気をした時、駆け付けてやれなくて悪かったな…と
ずっと気にしていました。
私が出来なかった分も、たくさんの親孝行をしてくれてありがとう。
母の居ない寂しさが、随分、紛れ、救われていたと思います。
本宅の叔父さん、両親のきょうだい皆さん。
父や私たちのことを常に気に掛けて下さり、ありがとうございます。
私や妹が入院した際、そして父の通院や入院も
たくさんの方が助けて下さり、支えて頂きました。
私たちだけでは、どうにも出来なかった部分に
手を差し伸べて下さり、ありがとうございました。
また、私たちの知らない内に、父を助けて下さった全ての方に
改めて御礼、申し上げます。
不器用すぎる父なので、お友達付き合いも出来ないと思っていました。
しかし、訃報を聞き付けて、手を合わせて下さった方、泣いて下さった方、
そのお姿に、父を一人の人間として愛して下さったのだと
救われる想いでした。
生前の父に関わって下さった全ての方に
この場をお借りして、改めてお礼を言わせて下さい。
そして良かったら、父との思い出話を聞かせて下さい。
父の人生を、楽しく、豊かなものにして下さって
本当にありがとうございました。
最後に、お父さんへ。
身体に異変が出始めて、一ヶ月半でこのようになってしまったこと
きっと、お父さんが一番驚いているでしょう。
私や妹を影ながら守り、支えてくれていたのに
何一つ親孝行できずにごめんなさい。
お父さんを安心させてあげられなかったこと、
悔やんでも悔やみきれません。
入院中もずっと、私や妹のことを、気にして心配してくれてありがとう。
最後の最後まで、頑張って生きようとしてくれてありがとう。
私たちのことを心配しているよね。
でも、不安や悩み、全ての苦しみから解放されて、安らかに眠って下さい。
じいちゃん、ばあちゃん、そしてお母さん
「おとー」のこと、宜しくお願いします。
お父さん、大好きなお母さんにようやく会えるね。
天国でも一緒に仲良く、私たちのことを見守っていてね。
今までお疲れ様です。
そして、ありがとう。
お父さんの子供に生まれて幸せでした。
一度も言ったことはなかったけど、大好きだよ。
本当にありがとう。
また会おうね。
ありがとうございました。
【参列者の方にお渡ししたお手紙】
本日はお忙しいところ、
父・〇〇の葬儀にご参列下さり、誠にありがとうございます。
生前にいろいろお世話になりましたこと、
故人に代わりまして厚く御礼申し上げます。
母が亡くなってから、気に掛けて下さったり
庭仕事を手伝いに来て下さったりと、本当にありがとうございました。
父を一言で言い表しますと
『優しすぎるくらい、優しい人』
この言葉に尽きると思います。
感動やで涙もろく、良く鼻を啜っていましたね。
内気でシャイでちょっと気弱で
なのにも関わらず、常にダジャレや冗談を言っては
人を笑わせるのが大好きな父でした。
不器用ながらも頭の回転が速く
ダジャレには常に最新の時事ネタが盛り込まれていました。
時に、不謹慎と感じる風刺も何のその。
余りにも人前ではしゃぎすぎるため、
旅行中に大喧嘩をしたこともありました。
空気を読めないところや味の好み、
父と私は似ているところが多々あり、同族嫌悪の時期もありました。
間に入ってくれていた母が亡くなった時
『自分の身体を守って、相手に対してはある程度目を瞑って、
お母さんに心配掛けないよう暮らしていきましょう』
とお手紙を貰いました。
それまで、父と二人きりになることなど殆どなかったので
初めはどうして良いのか途惑いました。
共有スペースで鉢合わせないよう
お互い、気配を察しながら暮らしましたね。
それまで、母と二人でテレビを観たり、ご飯を食べていた父が
一人で寂しそうにしているのを、どうすることも出来ずに見ていました。
突き詰めると、父にどのように接して良いのかわからないままでした。
おばさんに「サークル活動に行ったら?」と声を掛けて頂き
週に二日、外出するようになってからは、
「出掛けるのが楽しみなようで、良かったな」と思っていました。
また、妹も父を気遣ってくれ
東京に呼んでくれたり、旅行に連れて行ってくれたりと
たくさんの楽しい思い出を作ってくれました。
私は大人になってから、父と二人で出掛けたことが殆どなかったので
とても有難かったです。本当にありがとう。
父との思い出は少ないのですが、それだけに、濃い思い出が残っています。
・小さい頃、出勤時に車を追い掛ける私たちに、
姿が見えなくなるまで手を振ってくれたこと
・隣の森で、トランペットを吹いていたこと
・映画や音楽や落語が好きで、スピーカーや機械に強かったこと
・お休みの度に、海や川、旅行や東京に連れて行ってくれたこと
・好きな外食先はステーキかマック
・東京のフォルクスで食べたステーキにハマったこと
・母が大好きだったこと
・月命日には必ずお花を持ってお墓参りに行き、
お盆には真っ先にお迎えに行っていたこと
・冷蔵庫のホワイトボードにカタカナで
「ツマへ」のつもりが「シマへ」になっていたこと
・「不燃ゴミ」のつもりが「不然ゴミ」になっていたこと
・何度注意しても、マイクロSDをミコロスカードと言ってしまうこと
・きゃりーぱみぱみと言っていたこと
・ダジャレの時事ネタが最新過ぎて、
相手にいまいち伝わっていなかったこと
・日曜日の笑点が楽しみで、毎週のように観ていたこと
・最近、はじめて飲んだノンアルコールビールの美味しさに目覚めたこと
本当にお茶目で可愛い父でした。
誰これかまわず冗談を言うのが娘としては恥ずかしく、
しょっちゅう怒ってしまっていました。
私個人の思い出としては、
大学受験の為、東京へ通うことになった時、
父が一緒に付いてきてくれたことです。
中々、商店街を抜けられず、「何か飲もうか」と入った喫茶店で
それが何なのかもわからずに「ストロベリーサワー二つ」と頼んで
店員さんに「お酒です」と断られたのも良い思い出です。
その他にもお薬や日用品
「何かあれば買ってくる」と言って買って来てくれました。
携帯が見当たらないと言えば「かけるか?」とかけてくれ、
観たい番組があれば「録画するか?」とDVDに焼いてくれ、
私の部屋の前に置いておいてくれました。
駅の送り迎えを頼めば十五分前からエンジンをかけ始め
夏は暑くないよう、冬は寒くならないようにしていてくれました。
そんな父だからこそ、母も妹も、父が大好きだったのだと思います。
私自身も父の優しさに甘え、我儘し放題で居られました。
私の我儘を許し、理解してくれる、唯一の存在でした。
傍から見れば、変わった親子だと思います。
特に母がいなくなってからの九年間で
私たちは、不器用ながらも親子になれたのかな、と思います。