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通院、入院、転院の話①
もう直ぐ、
父が二回目の接種をしてから三度目の夏がきます。
記憶や時系列が曖昧な部分もあるのですが、
当時の記録を残しておきます。
①2021年7月末、2回目の集団接種。
その10日前後から
右脚の痺れ、脱力感を訴え始める。
私に告げてきたのは、恐らく、よくよくになってから。
サッシに掴まらないと立てない、
歩こうにもうまく力が入らないと言った訴えだったように思う。
②みるみる歩行困難になり、介護申請を行う。
申請書を出す為に、かかりつけのA病院へ。
診察結果は原因不明。
③進行速度が速く、同じくかかりつけのB病院へ行く。
『うちでは検査出来ない』と
C病院への紹介状を書いて頂く。
④原因不明のまま、三週間が経過する。
市で車椅子を借り出かけたりしていたが、
スロープのない場所はよろよろと歩行。
たった二段の階段が上れず、転倒したりしていた。
(接種前までは、近くの郵便局まで歩いて切手を買いに行けていた場所)
(ショックと悲しさを覚えた)
➄その頃の私は、職を失う不安でダブル~トリプルワークをしていた。
C病院は父の姉が付き添ってくれる。
そこで初めて『ギラン・バレーの疑いがある』と聞かされる。
⑥父にとって大切な用事があったので、
検査入院を先延ばしにして帰ってくる。
用事は私が代打出来ること、
知り合いの看護師さんに
『やっぱり検査入院したいです、と連絡してみては?』
のアドバイスを頂き三日後、再度C病院の神経内科を訪れる。
⑦叔母さんに『あねちゃんが付き添った方が良い』と勧められ
車椅子の父を受付、待合室まで連れて行った。
父は度々『体調不良は2回目のワクチンを射ってから』と口にしていて
診察室の中でも同じように、『俺はワクチンだと思うんだ』と言った。
先生は穏やかな良い先生で、
父の話を『そうなんですね』とか『2回目は何時射ちました?』
『自覚症状が出たのは?』と話を聞いて下さった。
圧力計を握ってみましょうと言われたけど、
両方とも、殆ど針は振れなかったように思う。
『入院して検査してみましょうか?』
『どれくらいですか?』
『大体、一週間から十日程度です』
『数日後に外出可能ですか?』
『病棟に上がるので、
一度退院して頂いてから、再入院の手続きとなります』
ザックリだけど、そのような会話をした。
父はどうしても用事に顔を出したかったが
そこではじめて『おねーちゃん、一人で行ってくれるか?』と告げてきた。
私は正直、父に負荷を掛けたくなかったので
検査入院が出来るの言葉に安心していた。
病棟に上がる為、抗原検査を受けに行くと
たまたま父とも顔見知りの友達が担当だった。
本当にたまたまだったようだが、その時の、父の笑顔が忘れられない。
暫く経って病棟へ上がれるとなったので、
必要最低限の荷物と一緒に、病棟へ上がることとなった。
その時、私に対しての質問は
『熱はありますか?』と
『ワクチンは接種してますか?』だったと思う。
その質問だけで、病棟行きのエレベーターに乗れた。
その時はまだコロナを恐れている真っ最中だったから
『私が病棟にコロナを持ち込んでしまったらどうしよう』
くらいに怯えていた。
たった数メートル先のナースステーション。
手前にある談話室の前で、父を看護師さんに引き渡した。
『ここから先は、立ち入り禁止です』と言われ
ここが最善の距離感なんだな…くらいに思っていた。
父の担当になった看護師さんが、
父に関する問診~アレルギーがある物等~や
入院同意書にサインして下さい、と戻ってきた。
談話室には、他の入院患者さんと思われる人の姿がチラホラ。
こんな場所で、打ち合わせをして良いのかな…と思ったのを覚えている。
看護師さんは『もう少し待ってて下さい』と言って、
病棟の方へ戻って行った。
その間に、車に残っていた荷物を取りに行った気がする。
病棟行きのエレベーターに一人で乗るのは躊躇があったが
『さっきも来たしな』と言い訳しながら往復した。
朝からの診察だったけど、どんどん仕事の時間が近付いてきた。
『もしかしたら遅れる』
『今日は行けないかも』
と云う連絡を、誰の姿も見えないエリアまで行って通話した。
『もう少し待ってて下さい』と言われ数時間後、
さすがに痺れを切らして、ナースステーション手前まで行った。
スタッフらしき人が慌てて『どうしたんですか?』と近付いてきたので
『待つように言われて談話室に居るんですけど、
あと、どのくらい待てば良いですか?』
そのように伝えると、『担当に聞いてきますね』と言って
スタッフらしき人はナースステーションの奥へと消えた。
暫くすると数時間前に話した看護師さんがやってきて
『もう帰って良いと言いましたよね?』
と云うようなことを言ってきた。
自信を持って『待ってて下さいと言われた』と言えるけど
父がお世話になる身。
どの道、仕事も休みにしてしまったので
『そうなんですね。入院保証金はどちらに払えば良いですか?』
と会話してから
『父をよろしくお願いします』
と託して数時間ぶりに談話室を出た。
夜間窓口を案内されたけど、
入院保証金は預かれないとの回答。
『何だよ!』と思ったけど、検査をすることで原因がわかり、
症状が良くなるなら…と云う安堵感も大きかった。
病院の近くの洋食屋さんが、コロナでテイクアウトをやっている。
父に抗原検査をしてくれた友達はご飯を食べたかな?
不意にそのことを思い出して、友達に電話をかけた。
父に関するお礼と、
談話室で受けた不当な扱いの話を聞いて欲しい気持ちもあった。
『お弁当を買っていくので、今から行っても良いですか?』
『良いですよ』
そんな会話をして、友達の家へと向かった。
その頃、
『バブル』って言葉があったと思う。
友達は『バブル』の一つで
コロナ禍でも宅飲みなどをする仲だった。
看護師だから、と云う安心感もあった
(危険だったら来ないでとなるだろう)し、
先行接種(私が一回目の頃に三回目)している、
換気をしたり、お喋りする時はマスクで…と
今思うと、健気なくらい一生懸命対策しながら会っていた。
『ワクチン』についての情報交換もしたかったんだと思う。
その時の答えは
『コロナの患者さんは受け入れてるかも知れない』
(直接かかわる医師や看護師以外は守秘義務とのこと)
『だけど、ワクチンの患者さんは聞いたことがない』
とのこと。
『でも、ギラン・バレーはあると思う』
『私はもっと、副反応もあると思いますよ』
その時、友達が言ってくれた言葉。
『自分は医療従事者だから射たない訳にはいかない』
『任意だけど、職員名簿一覧に接種する、しない、
しない場合には理由を書かされる』(実質強制)
『看護師の務めだから射つけど、子供には射たせない。
治験と云うことは、人体実験ですよ』
と、そんな本音も聞かせてくれた。
その時もワクチン、遅効性など検索をかけたけど
検索サーチには『新型コロナの情報については厚労省HPへ』が出て来て
『発熱や倦怠感が出る場合があります。
接種後以上が出た場合は、最寄りの医療機関へご相談ください』
的表記に誘導されるようになっていた。
その指示通りに従った結果
『何処で接種したの?集団接種?
うちの病院で射ったなら、追跡出来たんだけどなぁ』
と言ったことを言われました。
それは事前に布石を敷かなくてはならなかったのでは?
うちの場合は
『高齢者と基礎疾患のある方から』
『お近くの接種会場へ』
と言う案内が届いたんです。
重篤な副反応が出ている。
死亡例も上がっている。
かかりつけの病院と相談して下さい。
その説明があれば、立ち止まる選択肢もあったのではないかな…
その時の私は
『自分は助からなくても、せめて、お父さんだけでも』
くらいに思っていた。
逆の方へと追いやってしまったな…
どんなに悔やんでも、悔やみきれないです。
検査入院の一週間、私は仕事に勤しんでいた。
シフトはほぼほぼ毎日だったと思う。
昼のバイト、夜の仕事、
仕事が終わってからは、父の部屋の掃除。
当然のように、父は元気で帰ってくると思っていたので
バイト先の友達と電話しながら、家中の掃除をしていた。
ホームセンターでカラーボックスを買ったりもした。
父の薬が、何処にあるか分かり易くなるように。
ケアマネさんが車椅子用のスロープや
手摺りを手配して下さったので、
動線の邪魔になる物を退かしたりの日々だった。
一週間後、C病院から
『検査結果が出たので説明をします』の連絡があった。
叔母もいっしょに付いて来てくれたが、
『あねちゃんが聞いた方が良いよ』
と、二人で説明室に入った。
部屋には主治医と担当看護師の二人。
テーブルを挟んで対面した。
『検査したところ、やはり急性ギラン・バレーの疑いがあります』
医師の説明はこうだった。
『疑いと云うのはうちの病院では断定できないからです』
『断定するには県内だと、独協か自治医大への入院が必要です』
それから、ギラン・バレーは10万人~15万人に1人のとても珍しい病気。
その病院でも今まで一人診たか診ないか。
そのような話があった。
『治るんですか?』の問いに対しては、
『リハビリしながら回復に向けて治療入院は出来ます』
とのこと。
『ワクチンが原因ではないですか?』
自分が自分を攻撃してしまう。
その説明に、訊かずにはいられなかった。
『稀にではありますが、考えられなくはないですね』
軽くではあったが、お医者さんは確かにそう言った。
走り書きではあったが、叔母のメモにもそのように書いてある。
『回復に向けて、リハビリ入院をしますか?』
『患者さんは退院したいと言っています』
主治医の問いに対して答えたのは、担当看護師だった。
『ベッドが狭いし、硬くて眠れないそうです』
父と通話した際、確かに同じことを言っていた。
でも、帰ってきたところで、
身体の自由が効かない父の面倒を見られるのだろうか。
『他のベッドはないんですか?』
『生憎、病床が埋まっていまして』
『患者さんには少し、抑うつ状態が見られます』
主治医よりも担当看護師の方が饒舌だった。
今になってみれば、父に寄り添ってくれたのかも知れないが
その時には、無責任なことを言わないでくれ…と不安でいっぱいだった。
『いざとなったら、B病院に入院できるようにしましょうか』
助け舟を出してくれたのも主治医だった。
独協か自治医大は遠すぎるし、
通院するにしても入院するにしても、体力が心配だ。
その点、B病院なら市内だし、顔見知りのお医者さんや看護師さんもいる。
『では、そのようにお願いします』
私の言葉を聞いてしばらく後に、担当看護師さんが父を連れて来てくれた。
久し振りに見る父は、車椅子に座っていたせいか、酷く小さく見えていた。
『お父さん、退院したいの?このままリハビリ治療入院をお願いしたら?』
私はC病院に2度ほど手術入院をしたことがあった。
だからこそ、
リハビリ施設やスタッフさんのケアが手厚いことを知っている。
本音を言えば、このままここで、入院を続けて欲しかった。
『家に帰りたい』
『帰ってきてどうするの?
私は仕事で居ないし、その間、お父さんはどうするの?』
弱々しい声に、ついついキツい言い方をしてしまった。
母が亡くなってから、私はずっと『そう』だったのかもしれない。
『その時はB病院に行く』
父の意思は強かった。
余程ここに居るのが嫌なんだろう、そんな風に思った。
同時に、入院手続きの煩雑さを思い出し、憂鬱な気持ちになった。
『転院の場合には、すぐに入院出来るんですか?』
『いえ。
もう一度向こうの先生に診て頂いて、それから入院の判断となります』
(また一から…)
そう思って、憂鬱さに拍車がかかった。
その頃、バイト先には人も居て、当日休むことは出来ていた。
父の事情も話していたので、それなりに融通も効いていたが
迷惑を掛けてしまう…との申し訳なさもあった。
私は何て優しくなかったんだろう。
父の心配は勿論あったが、いつも仕事の心配をしていた。
それでも、父の意思を尊重し、退院することに決めた。
先に荷物を車に詰んで
それから父を外のベンチまで連れて行った。
父はヨロヨロと立ち上がり、介助を受けながらベンチに座った。
その時の背中の小ささを、今でもずっと覚えている。
そのままずっと入院していれば、或いは違った未来があったんだろうか。