黒い遺体
「ご遺体は、どんなご様子だったの?」
お兄ちゃんが日曜日の夕方、突然やってきた。と言っても、そんな予感がしてお兄ちゃんの大好きなポテトサラダを作っていた。
「発見できたけど、もう亡くなっていた」
そう電話があったのは、土曜日のこと。
お兄ちゃんに捜索協力の依頼があったときには、すでに四日が経過していた。お兄ちゃんは関係者から情報を聞き取り、おそらくはこの地点が遭難地点であろうという一点を絞り込み山に入った。沢に降りていく急な斜面をロープで結わえた彼はくだっていく。そのために日頃から彼は並々ならぬトレーニングを積んでいる。
ああ…。いた。遺体は山肌にもたれるように腰を下ろしていた。
「どんな表情?」と私が尋ねると、彼はふっと遠くを眺めるような目をした。
「お母さん。表情なんてないよ。真っ黒。そもそも目がないの。皮膚がないの。何もないの。鳥と獣、虫が…。まあ、自然の摂理に従ってね。あるのは登山道具と着ていたものだけ。あとは、闇だ」
闇。という言葉がずんと胸に響いた。そもそも美しい死なんてない。これが死の現実。
「でも、山で遭難するって、ある意味本人にとって本望なんじゃないかしら」
すると、彼は即座に否定した。
「お母さん、それは違うよ。山に入ったら無事に下山することを、僕たちは一番大切にしているんだよ。まあ、お母さんの言ってることがあながち間違いとは言えないんだけど。確かに冒険って、そういうものを孕んでいる。だけど、もう一度言うよ。僕たちは、絶対に生きて帰ることを前提として山に登るんだ」
お兄ちゃんにそう強く言われると、私は黙るしかなかった。真剣に山と向き合っている人間に、向き合ってない人間が何も言えない。
遺体を発見したのがもう日が沈むころで、ヘリコプターは引き上げた後。翌日、沢伝いに麓まで下すことになった。遺体は遺体袋にしっかりと入れられた。
翌朝、厳重に包んだ遺体の一部が破損していた。お兄ちゃんたちは遺体にもう一度手を合わせてから遺体袋にロープを幾重にもかけ皆で曳いて沢を下った。途中、幾度もかなり大きな落石があり皆に危険は差し迫った。
ポテトサラダをぺろりと平らげたお兄ちゃんに、まるちゃんが寄り添っていた。お兄ちゃんの疲れ切った心を癒すのは、まるちゃんにお任せだ。
帰り際、玄関で不思議な靴を履きながらお兄ちゃんがポツリと言った。
「におい、におい、なんだよ。いつも。死臭。これなんだよ。いつまでも鼻の奥に残るんだよ。どうやっても取れないんだよ。これがね…」
ため息をつきながら靴を履き終えると、「じゃあ!」と彼はちょっと手を挙げた。胸板の厚さと、腕の筋肉の盛り上がりが、Tシャツから弾けそうだった。
お兄ちゃんの体つきは元々、私そっくりだった。薄っぺらでひょろりとしていた。それがいつの間にか逞しくなっていた。今のような体に鍛え上げるには強い信念が必要。そうしなければならないことが彼の人生にも起きたのだ。私も、体の方は薄っぺらのひょろりだけど、心は鍛えて々強くなった。そうしなければならないことが起きた。
まるちゃんはお兄ちゃんのお見送りもしないで、いじけて部屋の隅っこに蹲っていた。このごろ、まるちゃんいつもそうだ。
お兄ちゃん、お疲れさま。それに応えるようにテールライトが二回光った。とそのとき、白いカサブランカが闇に浮かび上がった。手を伸ばそうとすると、花被片がひらひらと散ってその匂う香がお兄ちゃんを包んでいた。