野球観戦
#創作大賞2023 #エッセイ部門
今から15年ほど前になる。
私と夫は、小沢昭一の「明日のこころ」と題した講演会に出かけた。
独特の間と表情に加えて、あの絶妙なトークだ。私たちはアッという間に小沢ワールドに引き込まれていた。さてさて、講演会が終了すると、司会進行の人が、
「さあさあ、皆さん、お待ちかねの抽選会ですよ」 と言う。
「えっ? なに、それ」 私は隣の夫を見た。
「君、聞いてなかったの?」 夫はパンフレットの下の番号を指さした。
当たれば、ペアーで、“JALリゾートシーホークホテル“宿泊券と"ヤフオクドーム“での野球観戦のチケットだという。
どうせ当たりっこない。だけど、舞台の真ん中、最前列に座っていた私は見ちゃったんです。抽選箱から最後に出てきた番号、そう、一等賞の番号、
"No.34”が夫の番号だということを。
「おめでとうございます」
なぜか私が皆さんに挨拶して、舞台に出て賞品を受け取った。
最初、私はただ"シーホークホテル”に宿泊だけするつもりだった。というのも、私は子どものころから、野球と聞くだけで頭痛がするほどの野球嫌いだった。夏のあの高校野球のチャンチャカチャンという熱風を孕んだ声援がいけなかった。私にくらくらと目まいを起こさせた。
だから、夫は初めから野球観戦をあきらめていた。
そんな野球観戦チケットがホテル宿泊券の隣にポツンと置いてあった。夫は今まで私が嫌がることを決して無理強いしたことがなかった。
そう思ったとき、私はなぜか野球観戦してみようと思った。
ところが、ところがだ。ヤフオクドームに足を踏み入れたとたん、私の中のどこかのスイッチが切り替わり、なんだかやたらめったら興奮してきた。
スカーン、スカーン、と、球音がドーム中に響き渡っていた。そして、初めて見る練習中の選手の圧倒的存在感に、私はただただ驚いた。なかでも、中日ドラゴンズのブランコ選手のバットを振る姿に見とれた。これほどまで見事に完成されたバランスのとれた身体を私は今までに見たことがあるだろうか。そこから押し出される力は言うまでもない。
試合が始まると、またまた驚くことが起きた。まあ、ちょろちょろ人がよく動きまわのだ。席に戻ると、皆、たこ焼き、ポテトチップス、コーラ、イカ焼き…、と、まあ食べる、食べる。ビール売り嬢がかわいい声を上げると、それにつられて男性群が次々に手を挙げる。あのう、少しじっとして観戦できないかしら。私は一度も席を立ったりしてませんよ。
そのとき、ホークス打者がホームランかっ飛ばす。
「ワアーア」ものすごい歓声。私も、そして、ひっきりなしに飲んだり食べたりペチャクチャおしゃべりしていた人も、皆が一つになって歓喜の渦がドームを突き破りそうに鳴り響いた。
いい。いい。なんかすごく、いい。
そうか。これが、野球観戦というものか。
そのうちに、私はマウンドのピッチャー、摂津正投手だけに目が行き始めた。広い、こんなに広い球場で大勢の人の目が自分一人に注がれる中で、たった一人孤独と戦う姿が愛おしく感じた。そして、そこに何か美しいものを感じた。
場内アナウンスが、「摂津は、くらい、くらい」などとちゃかすものだから、私はよけい摂津をかばってやりたくなった。
夜,"JALリゾートシーホークホテル”の最上階の部屋から、夜中だというのにひっきりなしに走る車の明かりを見つめていた。時計を見ると3時だった。
いつもと違うことがいっぱいおきて眠れない。
明かりがこちらに向かってきては消えて、また、向こうにいっては消えて、私は飽きもせず夜中じゅうそれを眺めていた。
悲しいような、淋しいような、なんだか時間が止まったみたい。
私は、いま、何を思い出したのだろう。なぜか不意に、涙がこぼれた。
夜空にかけ上がるように、車のヘッドライトが一つ走り抜けていった。