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かぐや姫じゃないから

 暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったものだ。ほんとうに過ごしやすくなった。なのに、誕生月に私はブルーから群青色に、いや、このままいくと真っ暗になりそう。
 こんな時に、私、大学病院の歯科の予約があった。ほら、得意の仮面をつけて。口角を上げて。いつものように、完璧な微笑み…、は、どうした?
 完璧な微笑みどころか、私の顔は無表情。こうなったら、氷の微笑でもいいから出せたらいいんだけど。ツン、そんなふうに人から見られているだろうな。
 そんな感じで歯の治療が始まった。早く終わればいいのに。ところが、いつもと違うことが起きた。何のためなのか、分からない。診察台に寝っ転がってる状態で左側に、ちょうど昔のラジオ局のマイクのようなものが置かれて、それがものすごい爆音を発するのだ。
 私はものすごく耳がいい。だから、その音がガンガン、ダイレクトに私のからだ中に響き渡った。治療はちっとも痛くなくて、一時間ほどで終わったのだが、耳がとんでもなく疲れた。私は、ふらふら。歩くのも覚束ないほどふらついた。だけど、なんだか可笑しくて可笑しくてたまらない。
 何が可笑しいの? って尋ねられたら、答えられない。急にスイッチが切り替わったとしか言いようがない。家の中ばっかりに閉じこもってなくて、たまには外に出てみるもんだ。
 病院を出るとグーンと背伸びして空を見上げた。空。空はもう夏の強さを失って、どこまでも高く澄んでいる。いつだったか、あの空の青さからドクターヘリが爆音とともに舞い降りてきたことがあった。
 そのとき、院内放送の「危ないので、窓を閉めて外には出ないでください」というアナウンスを無視して、私は外に飛び出した。ドクターヘリを探して私は空を見上げて目を凝らした。だけどいつまで経ってもドクターヘリは姿を現さない。分厚い雲の中から音だけが迫ってくる。守衛さんが近づいてきた。
 𠮟られる。と、思ったけれど違っていた。
「ドクターヘリがつくのは、ほら、あの建物の屋上だよ」と、守衛さんは入院病棟の屋上を指さした。
「どうも」 もしかしたら私は無邪気な子供のような顔をしていたのかもしれない。しばらくしたら、きた、きた。ドクターヘリはしっかりと屋上の目印通りに下りてきた。
 それにしても、私はなぜこんなに空からやってくるものに憧れるんだろう。目をつぶるとなぜか、かぐや姫の物語が思い浮かんだ。ラストが美しい。古来から私たちが月に抱くイメージそのままにお話が終わる。
 いいなぁ。かぐや姫って月からお迎えがきて、月に還るんだもの。
私なんて…。たった一人で還るのよ。だって、私の星からお迎えなんて来ないもの。そのとき、本当はルール違反なんだけど、私は私が大切にしてきた家と物に魔法をかけてとっても小さくして、風呂敷に包んで持ち帰るつもりだ。その真ん中に、私の可愛いまるちゃんを座らせて。
 まるちゃんが大好きだ。わがままで、ずいぶんてこずることも多かった。だけどまるちゃんは一度だって私を傷つけなかった。いつもまっすぐに私に向かってきた。そこに、ずるさやいやらしさはなかった。
 私の星の名は、「文学の星」といいます。そこには、私の尊敬する向田邦子さん、芥川龍之介さん、志賀直哉さん等、たくさんの作家の方たちがいらっしゃいます。私など足元にも及びませんが、私は私なりに自分の仕事をしてそちらに戻らせていただきます。どうか見守っていてください。
 お会いできる日を楽しみにしています。

  追伸
 申し訳ございません。風呂敷包みを一つ持参してまいります。どうか何も聞かないでお許しくださいませ。

   2024年9月30日

                                   カサブランカ/Casa Blanca          
        

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