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龍笛(りゅうてき)#2



#創作大賞2024 #恋愛小説部門

龍笛(りゅうてき) 第二話

「うおーい、おー、おー」
 病院の窓から誰かが少年に叫んでいる。しゃがれた声の男は床のあちこちを歩きまわり喚き散らした。少年は大好きなお手伝いさん、法村芙美(のりむらふみ)にしがみついた。
「怖いよ-。僕、怖いよー」そういう少年に芙美は、
「ちっとも怖くなんかありませんよ。それはきっと、家族から遠ざけられたせいなんですからね」
「どうして、お家に帰らないの?」
「病気だからです。それが治るまで病院にいなきゃいけないんです。院長先生、坊ちゃんのお父様がいろいろお話をしたりお薬を飲ませたりしてね。大きくなったら坊ちゃんも立派なお医者様にならなくちゃね」
「うん」少年は無邪気にうなずいた。
 私の眺めているのは自分が死んだことを理解していない少年の世界だ。
 依浬が放心状態で龍笛を見つめていた。こういうとき、私はただじっとしている。依浬が何を苦悩しているのかを分かっていた。少年のことだ。
 事がスムースに進むように、私はかなり前から少年のそばにいた。お手伝いの法村芙美として。
「このままでは、いけないの?」
「ああ。少年の魂が永遠に彷徨いつづけるからね。これ以上此界にいることはできないんだよ」
 私は黙ってうなずいた。私の姿も少年の姿も人には見えない。
 由緒ある少年の家はこの辺りで、"月の桂病院"と呼ばれていた。姓を「桂」といい、「月」は高い塀を巡らせた中が奥深く、現実とは異なる鈍い光で満たされているためだった。
 土塀のずしりと重い鉄門をくぐると、建物全体が色あせた頑丈なつくりの病院がある。病院名と表示板は風雨にさらされて文字が消えかかり、すべてドアは内側から施錠され表口に守衛室があった。
 病院の敷地の中ほどに「診察室」があり、その東側に「男性病棟」、「女性病棟」、その建物の窓には太い鉄格子が取り付けられていた。二つの病棟には一階と屋上にだけ職員が往ったり来たりする渡り廊下があった。
 少年は赤ん坊のころから聞き分けがよく人見知りで、たいていいくつものミニカーを考えつく限りの遊び方でよく手入れされた庭の芝生に並べたり走らせたりしていた。
「あらあら、車がいっぱいあっていいですね。坊ちゃんはこれでどこに行きたいの?」
 いつも地味なエプロンをかけた芙美はお手伝いさんの中で少年の世話を任されていた。少年はは赤ん坊のころから芙美がそばにいさえすれば機嫌がよかった。少年の心に明るい日差しが差し込んできた。この世でたった一人自分を本当に慈しんでくれる気がした。
 芙美がいると少年は安心して好きなことができた。土を捏ね回しシャベルで掘り起こして泥遊びをしたり、芝生を転げまわったり、テラス沿いのハーブの花壇を踏み荒らしても、芙美は大声を立てて笑った。
「だけど、もうそのぐらいでおしまいにしましょう」
「どうして? まだ遊びたい」
 離れの窓から母親がこちらを見ていることに少年は全く気づかなかった。母親は砂の城を踏みつけ、ハーブの花壇を荒らしたことにヒステリーを起こし激しく少年を叩き続けた。どんなに芙美が謝っても母親の癇癪はおさまらなかった。母親も院長の患者だった。意味もなく神経が乱れ、少年は母親に甘えたことも親しみを感じたこともなかった。強いて言えば、母親は少年の恐怖の番人だった。
 渡り廊下の向こうの中庭に女がいた。
 鳥の糞がこびりついたベンチに座った女は目をぎょろつかせ、ぶつぶつと何か訳が分からない言葉を呟いていた。が、彼女が指を鉤ぎ棒にして編み物の真ん中に突っ込むと、次に瞬間、毛糸はしなやかに滑って一目増えた。その指はあまりに正確に規則正しく決して縺れることがなかった。
 へとへとに疲れて、かなりの長さになった白いストールは静かに垂れて、しなやかな流れが土に届いても女は編み物を楽しんだ。
 そのうち指編みのストールは女の足もとに横たわった一輪の花のようになった。
 善意の表情を浮かべた人がほどよい曲線を描いて土に広がっていく白いストールにジョロで水をかけた。看護人はただ面白そうに眺めているだけで、じっとりとした汗を拭いごくごくと音を立てて水を飲んだ。
 よく手入れされた菜園の前に作業衣を着た何人かがいた。ナス・オクラ・キューリ・トマトたちが共に生っていた。看護人が勝手に菜園の中に入ってしまった男を𠮟りつけた。ここではなによりも規則正しい生活のリズムが重要なのだ。鍵束を手で数えながら看護人が全景をざっと見回してから、ピーと笛を吹いた。
 絶えず目や鼻をこすったり、目つきの暗いぼんやりしている人が看護人に促されると、突然、奮い立って雑草を力いっぱいに抜き始めた。野菜まで抜き始めた。が、看護人は大きな声を出さなかった。
 離れのバラ園では庭師が枝を刈り込んだり、撓めたり害虫の駆除をしていた。庭師は少年の父、院長の患者であり芙美の実の兄でもあった。
 芙美が少年に別れを告げたのは、少年が五歳のときだった。
 外来病棟の一階の診察室から仮眠室のある長い廊下を抜けると横長い建物があった。
 作業室だった。女たちが帽子、シャツ、作業衣、病人服、拘束衣などを作るために、ミシンを踏んだり特別な針やハサミを鋏を持ったりゴム紐を通したりと裁縫をしていた。目をぎらつかせた少女が四方に広がった白い布に潔癖にアイロンをかけていた。
 天井を共有する作業部屋では不愛想な男が数人、そのたくましい腕で釘を打ったり鋸を挽いたりしてチェストや本棚などを作っていた。彼らの様子を見ていると、何かに憑りつかれたように仕事に熱中していたが、それ故に"神経の過度の興奮“も見られた。
 こういう病院では、アルコール、鋭利な道具や尖った道具、本や新聞を読むことなどは禁じられていた。この二つの部屋の仕事に従事するには、院長の特別の許可が必要だった。つまり、症状が軽度であることと、時間をかけて回復したと認められる「診断」だ。
 厳重に気が配られ、監視人が取り仕切っていたあの日、事件が起きた。
 どんなに「よき医師」の院長も患者の微妙な心の内を読み取ることは難しい。
 一途な男の荒い息で角材のきな臭い削り屑が舞った。そのとき、
「ううう」
 監視人の足元に鮮やかな血が飛び散った。凶暴な男は他の監視人に取り押さえられたが激しく暴れた。
 男は監視人に取り押さえられ腹ばいになってもなお、凄まじい呻き声と恐ろしい叫び声を上げ歯を嚙みしめていた。
 すぐ、院長が駆けつけた。
「何をしたか、分かる?」
 院長の言葉で、男の荒々しさが少し緩んだ。少しでも気を鎮めるために、院長は男の大鋸屑だらけのズボンをきちんと清潔にはらってやった。ズボンの裾からのぞく足は血管が浮かび、痙攣を起こしていた。
 院長が絶えず男の体のどこかに優しく指先で触れながら、父親のような口調で諭し続けると、とうとう男は落ち着き叫び声を上げなくなった。
 瞬きもせずにずっと遠くを見続けていた男は、羞恥心の麻痺した身体からじょろじょろと小便をした。院長はスチーム用パイプにかかっていた雑巾で床を拭き、監視人に男の着替えと診察室へ連れてくるよう命じた。
 男は芙美の兄、庭師だった。
「なにをしたか、分かる?」
 明るい窓際にゆっくり歩いてから院長は振り返った。男はほぼ放心状態に陥っていた。
「昨晩のことでございます。白い壁から八百万の神々の総代が出てまいりましてね……」
 男は意味のないストーリーを、この上ない丁寧な言葉で延々と喋った。
 なにも話をはぐらかしているのではない。
 一言ごとに、男の深い重いとひたむきさが感じられた。彼はとても落ち着いていた。発作は完全に収まっていた。ただ、夢想と現実を絶えず行き来しているのだ。
「よき医師」は辛抱強く静かに時の流れを待った。
「何をしたか、分かる?」
「はい、先生。よく憶えておりますでございます」
 男はひどく滑稽な言い回しをした。
「監視人の呻き声を聞いた?」
「ああ、それ、それなんでございますです。私は引き止めたんですがね」
 男はニヤニヤと嫌な笑い方をした。
「なにを、引き止めたの?」
「八百万の神々の総代様をです。そもそもがでございますが、あの"色“はいけません。我々、下々の者の色ではございません」
 あきらかに彼の目には、非難の色がよぎっていた。
「そ、そう。その色って、何色のことを言っているのかい?」
 院長は身を乗り出してちらちらと時計を見ながら、次の患者はD医師に頼んでくれないかと看護師に呟くように告げた。男は、うん、うんと意味もなくうなずいていた。
 その日を境に、少年が芙美と会うことは二度となかった。
「芙美は、どこ? 怖いよー。僕、怖いよー」
 少年は初めて大人に食って掛かった。
 夕方の六時近い時刻になって、刺された監視人が担架で担がれて病院を出て行った。それと入れ違いに、刑事が二人やってきて庭師の男と院長を連れて行った。
 病院のエントランスに、世の中のすべての人が、一瞬で、これ以上我慢できないと思う一枚の"絵“がかかっていた。
 『黄色い向日葵(ひまわり)』 R.K.
 そこには常人では到底たどり着けない、あらゆる色の混じりけのない、不必要なものが剥げ落ちた"色”があった。
 もろく危うげな発作が起こって、いつまでも鳴り止まなくなる、色。
 生気を取り戻すのにあまりにも長い時間がかかり過ぎた。視界をぐったりと覆い隠す、生々しい曲線はアールヌーボー的な誇張ではなく、それは唯、生き物の、"植物の生々しさ”なのだ。
 メッセージなんてない、いつかどこかで見たような子供そのものの絵は、現実をすり抜け、あまりにもリアルで理性やお世辞などなかった。
 純真な心の子どもが、やがて大人になるということは、こういう"黄色い向日葵“が、ぽっきり根元から折れてしまうということなのだ。この絵を描いたのは患者『K』。
 十九歳で理工科の学生だった。
 思考の混乱が顕著であり、精神鑑定の必要を有した。青年はパン屋のおかみさんの喉を剃刀で切った。
「どうして、そんなことをしたの?」
 院長は表情をまったく変えず静かに呟くように尋ねた。
「どうしても心が惹かれる何かが、その人の胸元で揺れていて、ボクが思わずそれに指先で触れようとしたら、その人が大声を出したんだ。きっとそれで動揺したんだね」
 青年は声を立ててクックッと笑った。
 少年は母親の遺伝子を引き継いで成長していった。学校には通わず家庭教師が勉強を教え、外との接触も最低限にとどめられた。そこまで父親である院長が警戒するのは、少年の症状がとても重かったことと、あまりにも少年が得体の知れない存在だったからだ。院長が今まで診てきたどの患者のケースにも当てはまらなかった。
 暗闇のなかで少年の心があてどなくさ迷った。少年の瞳の底はどんよりとし逼塞していった。
 ある夜、窓の向こうの薄暗がりに目を凝らすと目の前を父親とバイクが通り過ぎた。どうしてだか分からないが、遠ざかっていくバイクの音が心地よく少年の耳に響いた。少年は自分の心を波立たせる音を聞こうといつまでも耳を澄ませていた。
「坊ちゃん」
 えっ? その声は忘れもしない懐かしい芙美の声だ。取り憑りつかれたように少年の心はバイクに引き込まれていった。
"Ninja"(ニンジャ GRZ900R)は孤独な少年の"分身”だった。
 暗澹たる気持ちの中で、たった一つ動かない確かな実感を掴めるもの、それが"Ninja"だった。
 ずっと遠くまで、道は続いていた。
 鋼色の空に百舌鳥の鳴く草むらにひとり座る少年の心はさ迷っていた。日の翳りを浮き立たせ、白線は美しいラインを描き、"道”に寄り添っていた。
 狙った一点にスマホを置いた少年は録画ボタンを押した。Ninjaでカーブの先まで行きすぐさまUターンすると少年は一気に加速した。自分のスマホを踏む踏まないの直近、ぎりぎりの地点を、少年は滑らかな走りでスピードを上げ何度も通過した。
 遠いと迫力のある映像が取れないのだ。うまくいく確率は極めて低く、微妙にずれてスマホが損なわれるリスクは大きい。拍手喝采する観衆とてない。神経が変に高ぶり、ヘルメットの中で耳鳴りのように風がヒュルヒュル鳴っていた。
 そんなくだらない非生産的な繰り返しが自らの心の中で錆びた自我を呼び醒ますようで少年には心地よかった。
 何か大切なもの、そう、無償の愛を注いでくれた芙美が突然出て行ったとき、少年の心は空っぽになった。「行かないで」と叫ぶことも泣くことも許されなかった。どうすることもできなかった。
 由緒ある病院? そんなものは少年にとって虚しい空洞だ。
 名門の跡継ぎ? 少年が望んだわけではない。
 母親?     心を病んでいて、一度も少年ときちんと向き合ったこと
         がない。
 父親?     桂病院の養子で娘婿。妻のいいなり。
少年の心の中で、何かが壊れていき、腹立ちがふつふつと込み上げた。
 その込み上げてくる粘液塊となった腹立ちを、濃い闇の底に紛らせた。
 それでも少年の心は、空っぽだった。
「かわいそうに……」 夜空に"月”が冴えていた。
「なんだって、この僕が可哀想? ふん」
 いくぞ、"Ninja"。
母親似の美しさが際立った少年はめいっぱいアクセルを開けた。うす闇に青白く計器がぼんやり浮かび上がる。速度、エンジンの回転数、電圧、燃料の残量、水温(冷却水)は、刻々と現実を消失させる。
 墜落していく、喪失感のその中で、唯一、"Ninja"は噓をつかなかった。
 視線を一点に集め、分厚い空気の切穴を、少年は100キロのスピードまで上げた。
「警察が、なんなんだ!」
 空気の先端が、あっという間に少年のか細い身体を貫く。それはもう、独りよがりでも自分の影との鬼ごっこでもなく、確かな現実感覚だった。
 何よりもバイクに必要なのは、指一本の操作ではなく、しなやかなフィーリングだ。瞬間、瞬間の"直感"と"手応え“に、その身を委ねたときだけ、少年は空白が埋められていく錯覚に陥った。というよりは空白の輪郭が薄らいでいく気がしていた。
 やがて県道は広い眺望を持った緩やかな坂になって、もうすっかり暮れた深い山の中央よりに、三日月があった。
 これからゆっくり満ちていく"月”が、あたかもこちらを窺っているかに見えた。心のどこかで、ややこしい滑稽な闘争心がむき出しになってきた。
 少年はアクセルを全開にした。
 どんどん濃くなる空気に、少年は身体を押し込めるように流体化させ、なにもかも全部が"Ninja”と一体となる。
 全身の緊張がここちよくほぐれていく。一定の法則で反復する機械音は向神経剤のように反発する少年の魂を癒やし、"G”が頭のてっぺんから尻にかけて垂直にかかる。
 バイクは力のモーメントがいつも自分中心で、車のように横から捕らわれない。常に自分の体の中心に遠心力がかかる。
 この瞬間、少年はかろうじて"自分はぶれてはいない”、と、身を震わせる。
 ここまで走れば、もういいだろう。あの尊厳色に染まった月を、ひとかけらの月影をも振り切ったに違いない。もうすっかり月の位置も変わっただろうと少年は自信をもって顔を上げた。ところが、月はまるでそこだけ時間という計器をくぐり抜けたみたいに同じ所にある。
 窒息するくらい少年は愕然とした。
「お前なんか、どう足搔いても逃げられないんだぞ」           
 三日月がニカッと笑った。
「僕は戦闘機なみのバイクに乗ってるんだぞ。分かるか。誰もこいつに追いつかない」
 あと何秒かすれば結果はでる。僕の勝ちさ。
 ちらちら、山の稜線から見え隠れする月を睨んで高架下をくぐる。交差点の赤信号を突破する。サイレンの音が鳴りやまない。そこまでしても、月はぴったり少年についてくる。流れなどないように月は動かない。
 不意に視界が開けたところでバイクを停めて、少年は呼吸を整えた。
 "Ninja”にはまだ熱気が残っていた。
 すっかり冷え切ったヘルメットを外すと、いつも少し淋しい風がさあーと吹いた。
「なにもかも、時間つぶしさ」 少年は飲みかけのペットボトルを夜空へ投げつけた。いくら続けてみたって、38万キロ離れた、あんなところいる月との距離が縮むはずがないじゃないか。
 大きさが違うだろ、大きさが……、さ。
 少年は革ジャンのポケットからいつもの煙草"マールボロ”を取出しうまそうに吸った。少年は煙草の煙をゆっくり吐いた。
 そこから夜の町が広がっていて、"月の光”が透き間なく満たしている。
 月の明かりに静かに身を横たえた町から、暴走する危険を感じ取ることはできなかった。母親に甘えて寄り添って眠る子供たち、無垢な愛情に満ちた幸せの灯がひっそりと集まる空間に、少年の居場所はなかった。
 そういう風景から遠ざけられた鈍い物音は小刻みに少年の猜疑心を鳴らしていた。絶え間なく叩きつけられる"緊張”に我慢しきれなくなると、少年は、"Ninja"と外界を斜めに横切り暴走するのだ。
 改造マフラーの爆音をとどろかし、静かに眠りについた町のど真ん中に少年はスピードをあげ突っこんでいく。
 もう閉館してしまった美術館、郵便局、床屋を過ぎると人通りが少ない住宅街で、塀の向こうの古ぼけた洋館はもう遠いものになっていた。電柱の張り紙が外れかけ、中華料理店の暖簾が揺れ男が二人店から出てきた。
 少年は空腹だった。サイレンが鳴った。
 すれ違った救急車は赤色灯を気ぜわしく点滅させ救急病院の夜間通用口前に停まった隊員が急患の担架をかつぎ、声を掛けながら病院に入った。救急車に同乗者はなかったが、毛布にくるまれた患者はさほど若くない女の人で血の気が引いた顔は弱々しく瞬きもしなかった。
「うおーい、おー、おー」
 家に戻ると、夜気の中から気味の悪い叫び声が聞こえた。
 次の日、ぼんやり目覚めた少年は煙草を吸い、虚ろな瞳を窓外の風景に向けた。少年は学校へも行かず惰性で毎日を送るようになった。生きる気力も失せていた。
 "Ninja"と共に在るときだけ少年は確かに生きていた。
 海が見たい。芙美に会いたい。
 全身を研ぎ澄まし、少年と"Ninja”は加速し続けた。そのまま山道を走った。道に迷ったので引き返していくと、伸び放題の雑草の中に廃線の跡があった。涸れて静かに横たわるレールが少年の心を捉えた。あとどのくらいしたら、この鋼は土に還ることができるのだろうか。
 時速100キロのスピードで海沿いをひた走りに走り海岸通りまで来ると、一足先に暴走族がたむろしていた。彼等はぐるぐる同じ所をバイクで回ったり、奇声を発したり、仲間内でちょっとした悪戯をしたりして遊んでいた。
 が、そのうちに、そばで見ていた少年を挑発するように流し見て、突然、
バ、バッ、バッバリ、ガッガーン……、ガッ、ガッーツー……、圧倒的なマフラーから一気に出力を押し、皆が少年に向かってきた。
 嘲笑しながらも少年のバイク魂に火がついた。
 いくぞ、"Ninja"。 少年は手首がひん曲がるほどアクセルを開け続けた。
 “若さ” vs. "若さ“
 100キロのスピードで、少年は暴走族の集団を抜き去った。
「へん、ざまあみろ!」 得意の絶頂の少年の耳に激しい戦いに鎬を削る熱い自分の息だけが聞こえていた。そのとき、
「あっ、あああー、やべぇー」 犇めくように暴走族が追いかけてきた。いくつもの火を吐くヘッドライトが縦になって、車の間を抜いて迫ってくる。
 すっかり面食らった少年は、一瞬、取り乱した。が、すぐに、絶対に"勝てる”と直感した。なぜなら、”Ninja”はいつも少年に忠実だった。
 ヘルメットの中で大声で、「ワオー」と叫んだとき、少年は自分でも知らぬ間にヤツラを振り切っていた。
 それから数日が経った。
 夜、ガソリンスタンドで少年は鼻歌を歌いながら、"Ninja"を洗車していた。左手を銀色のカウルに当てて冷たい感触を確かめ上機嫌でボディをくまなく拭きあげていたとき、あの暴走族の群れがガソリンを入れに来たのだ。
 まずいな。
 背筋がひやりとし緊張感が全身に広がった。少年は気づかれないように祈りながら体の位置をずらし、"Ninja"の後ろに身を隠し様子を窺った。
 カッ、カッ、……。
 暴走族特有の"特攻ブーツ”の鋭い音が次第に強さを増しこちらに近づいてくる。
 あーあ。もうだめだ。こてんぱんにヤラレル。少年は目を伏せた。相手がどう出てくるか予想はついた。リーダーがほんの少し合図するだけで、ニヤニヤしてこっちを見ているあの連中がぐるりと取り囲み拳を振り上げ飛びかかってくるだろう。
 足音がピタッと止まった。
「お兄さん、この間は速かったですね。あまりの速さに感動しましたよ」
 雑巾をただやたらと動かし狼狽している少年の頭上で思いがけない濁りのないトーンの声がした。
「えっ? 何の事ですか?」
 しどろもどろの少年は媚びるような目でそう言い、あとはいったい何をどうすればいいのか見当もつかず、ちょこちょこと動きながら何気ない振りを装って立ち上がろうとした。
 暴走族のリーダーは"M”といった。
 物怖じしない意志的な瞳をしたMは鮟鱇のような大きな口を開け笑いながら少年の様子を眺めている。Mはずんぐりと背丈は低かったが、おそらく誰もが魅かれるであろう何かを持っていた。
 Mは"Ninja"にやさしく指先で触れながら、
「いやいや、この間は海岸べたを抜かれて追いつかんやったですよ」
と言った。
 へとへとに疲れていた少年の警戒心がやんわりと緩んだ。後ろで待機していた手下は「しょうがないや」と口の端だけで笑い、それでいて瞳の奥にはギラギラと鋭い光を湛えていた。
「お兄さん、お幾つですか?」
「十七……、ですけど」
「へえ-、奇遇ですねえ。俺もっすよ。これがご縁で、仲良くしてくださいよ。学校はどこですか?」
「……、S高、だけど」
「うへー、お兄さん、めちゃくちゃ頭がいいじゃないですか。やっぱ、親は医者ですか?」
「……、うん。病院」
「ふーん」
 だけど、それは表向きの話だ。少年は学校になんか行ってない。確かに、S高に少年は在籍している。母親が裏口入学させ、授業料を払い、多額の寄付をして。
 少年は病院の一人息子という自分に課せられた責を十分理解していた。親に反抗しようという気などさらさらない。ただ、親の期待に応えたくても応えられなかったのだ。少年は病院のエントランスに掛けられた、『黄色い向日葵』なのだ。心を病んだ母親の思い通りに疾走するよう鞭を当てられた純真な心が、ぽっきり根元から折れてしまった、それが、少年の抱えた暗澹たる闇だった。
 バッ、バッ、バッバリ、ガッガーン……。
 突然、孕んだ熱風を少年と"Ninja”に押しつけ、"SUZUKI  PG500"が視界に
割り込んできた。
「けェッ、ふざけんな!」
 いくぞ、"Ninja"。
 スピードがぐんぐん上がり、加速するにつれて視野が狭くなり、少年は目を細めた。あっ、そのときだ。右目のコンタクトレンズが取れた。少年はひどい近視で乱視でもあったが、そんなことを言っている場合じゃなかった。
 重力すらも超えていく支配欲は抑え難く少年を生のぎりぎりで戦わせた。
 コーナーを曲がっている時には次のコーナーを、その先、その先の一点、一点だけを凝視て、少年は片目でも決してスピードを落とさなかった。
 夜気のなかから龍笛の音が聞こえてきた。
分厚い空気の切穴を少年は突き抜けていった。少年の死に顔には薄っすらと微笑が浮かんでいた。
 高い塀をめぐらせた病院の中はひっそりとし、向かい合っているのは夜だけだった。
 静かな月の光の通り道で、"Ninja”は鮮明に浮かび上がっていた。烈しいエンジンの通奏低音が鳴っていた。
 "Ninja"はじっと、少年を待っていた。
 月の光にぼんやり少年の姿が浮き出た。
 いくぞ、"Ninja"。


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