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 涼しいうちに買い物に出ようとしたら、駐車場で蝉が死んでいるのを見つけた。
 陽射しが強く早く用を済ませたいのだが、このまま蝉をここに置いておくわけにはいかないと思った。どこか植え込みの隅にでも…、と思い蝉に触れた瞬間、ミミミミミミ…、蝉はすさまじい鳴き声で飛び去った。
 その鳴き声が夏の陽のなかに揺らめいていた。陽炎のなかで蝉はポトリと落ち死骸になる。すべてがあらかじめ決められたことなのだ。上手く気持ちを立て直せないまま小道を歩いていくと、ポツン、ポツンと蝉の死骸が5つほどあった。スーパーで買い物をしている間中、激しく震わせた蝉の翅の感触が思い浮かんだ。
 そのあとパソコンを開いて、“セミ″の検索をしようとしたら、そういう蝉のことを"蝉ファイナル“とお若い方々が呼んでいることを知った。
 生き物の生死はゲームではない。
意味は違うが、日本には、"空蝉”などという美しい言い方がある。耳を澄ませば、地上に出て七日という蝉の儚さがきこえてくるようではないか。
 夜、まるちゃんのお兄ちゃんが急にやってきた。
 彼は疲れた様子で鞄からいくつかのプリントやスマホの中の写真を私たちに見せ、辛さをこらえて、できるだけ淡々とした言葉で説明しようと努力していた。
 7月下旬、山登りに来ていたMさんというある高齢の男性の行方が分からなくなった。息子は警察や消防の方々とともに、地元山岳会のメンバーとして捜索に当たった。
 夫婦での登山だったが、Mさんは見ごろを迎えるオオキツネノカミソリを撮影するために夫人を一人山小屋に残し目的地に向かった。
 だが、Mさんは約束の時間を過ぎても戻らなかった。
 涙を流してうずくまる夫人の姿が、皆の心を打った。本来なら、生存可能とされる日数を過ぎての捜索はしない。が、そのまま捜索は続けられた。
 そして、登山ルートから滑落したMさんの遺体が発見された。
「Mさんが最期に撮った写真には、きっと…」
「うん、そうだよ。ほら…」
 息子はスマホの画像を私に見せた。
そこには薄暗い谷へと続く崖地に群生するオオキツネノカミソリが写っていた。
 私の目には、それが彼岸花に見えた。(むろん、オオキツネノカミソリはヒガンバナ科の植物なのだが)
 並べて撮られた、いくつかに壊れた一眼レフは、それぞれが体のどこかを失ったり傷ついたりしてMさんとともに時間を止めていた。
「奥さんがね、おばあちゃんにそっくりなんだ。いい人だって、皆がそう思うんだ。だから、皆の気持ちが動いたんだ」
 おばちゃんとは、私の母のこと。10年前に85歳で亡くなった。
 息子は祖父母によく懐き、また、私の両親も孫を特別に可愛がった。
だから今、彼は祖父母のいない祖父母宅に暮らしている。「僕がおじいちゃん、おばあちゃんの思い出と二人が大切していた物を守るのだ」と言う。
 母は雪に心が純化されたような人で、誰からも愛された。なりよりも優しい笑顔が皆の気持ちを幸せにした。
 私がMさんに触れたなら,あの蝉のように傷ついた翅を震わせて、凄まじい鳴き声で谷底から飛び去れ。
 あの、優しい奥様のもとへ。
 


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