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『空海』【1984年邦画】【実在した人物:弘法大師空海 俗名:佐伯 眞魚(さえき の まお)】【俳優:北大路欣也】

染谷将太版「空海」


【感想】

恥ずかしながらこの映画を観て空海に興味を持った。超人的な伝説の多い人物、空海

超人的ですが、かなり努力をする人のイメージが強かったです。まず、仏教に目覚めた空海は、密教の「虚空蔵求聞持法」という、普通なら習得するまで、気の遠くなるほど時間のかかる秘法をスピーディーに身につけ、19歳で厳しい山林修行へと旅立ちました。

土佐国(現在の高知県)の岬近くにある洞窟内に座して真言を1日1万遍、100日間かけて100万遍唱えるという苦行を続けているうちに、空海はあらゆる霊的存在を瞬間的に知覚し、数々の怪異現象を経験するようになりました。

そしてある日の夜明け、強烈な神秘体験をします。明星が東の空に姿をあらわしたかと思うと、空海に向かって飛んできて、空海の口から体内に入っていった。

この神秘体験をきっかけに空海はより一層仏教へのめり込み、彼の「出家宣言」の書とされる『三教指帰』を書き上げることになりました。

などなど、到底信じられない事象が書き残されているのですが、映画はファンタジーとして楽しめました。染谷版「空海」は存じ上げておらず、ぜひ観たいと思います。
秋の高野山はとても奇麗なので残りの人生一度は尋ねてみたいと思います。
では、また。

【登場人物】

空海

 774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉、平安時代初期の僧。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)

日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。

仏教において、北伝仏教の大潮流である大乗仏教の中で、ヒンドゥー教の影響も取り込む形で誕生・発展した密教がシルクロードを経て中国に伝わった後、中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを、体系立てた形で日本に伝来させた人物でもある。

【あらすじ】

伊豫親王に仕える叔父・阿刀大足を頼り大学をめざし奈良の都に出て来ていた佐伯の真魚が突然、姿を消したのは桓武帝による遷都騒ぎのさ中だった。六年後、乞食坊主の姿で故郷の讃岐に現われた彼は、家族の止める間もなく、再び命がけの修業の旅へと向かった。延暦二十一年一月、富士山が大爆発を起こした。近くで修業中だった真魚は、恐怖で逃げまどう村人たちを鍾乳洞に避難させる。同じ頃、京の東宮御所では藤原縄主の妻・薬子が、娘婿にあたる安殿親王と密会を重ねていた。延暦二十三年、桓武帝の命により第十六次遣唐船の派遣が決定。密教の存在を知りその教典を持ち帰ろうとした真魚は、大足と伊豫親王の尽力で遣唐留学生として参加を許された。そして、これを機に名を空海と改める。遣唐使の中には以後空海の生涯のライバルとなる最澄も特別待遇で加わっていた。九州を船出した翌日、大嵐に会い、空海らが乗った船は難破船となるが、三十四日目に福州の海岸に漂着。難行苦行ののち、長安にたどり着いた空海たちは最澄の乗った船も無事で、彼は天台山へ向かったことを知らされた。西明寺に落ち着いた空海は三十四年もこの地にとどまっている永忠に会い、密教の頂点に立つのは恵果阿闍梨だと教えられる。密教の原語である梵語を三ヵ月できわめようと、空海は狂ったように励む。平安京では何百巻の経典をたずさえ帰国した最澄を、桓武帝が迎えていた。最澄を国師に任じた帝は奈良の長老たちを膝下に従えるという念願を叶えた。一方、恵果の死期の間近いことを知った空海は長安青竜寺に彼を訪ね、最後の弟子として密教の潅頂を授けられる。それから三ヵ月、殆ど不眠不休の中、二十年はかかろうかという密教のすべての伝授が行なわれた。日本を離れて二年、帰国した空海は桓武帝の逝去と安殿親王が平城天皇となられ、薬子が帝のお傍に居ることを知った。空海の持ち帰った教典、その他の目録が帝の元に届けられると、伊豫親王や最澄がその価値を強く推奨したためお科め無しとなる。薬子の陰謀によって、伊豫親王が自害して果てるという事件が起きた。疲れ切った平城帝は、弟の神野親王に帝を譲り嵯峨天皇の御代となる。だが、奈良に移った平城帝の独断専行はやまず、空海は国家鎮護の祈祷を行ない、軍団に取り囲まれたために上皇は出家、薬子は自害した。弘仁三年、最澄は空海に密教の授受を願い潅頂を受けたが、密教の最後の潅頂である伝法潅頂に至る前に、高弟の泰範を残し叡山へと去った。後に密教の解釈をめぐり最澄は空海と対立。泰範は空海のもとに残り高弟の一人となる。弟子を伴れて旅に出た空海は疫病にあえぐ人々を救ったり、水害で悩む故郷の満濃池の築堤事業に力を貸したりして身をもってその教えを広めて行く。京に戻った空海は嵯峨帝に国家安寧のための教えを与えると同時に、高野山に寺院を建立する計画に着手。そんな彼のもとに最澄逝去の知らせが届けられた。承和二年三月二十一日、万灯万華会の中、凄絶な断食ののち「秘密曼茶羅十住心論」を授けた高弟たちに見守られ、空海は天へと向かう旅へと立った。

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