究極のフリー乗車券…職務乗車証の思い出
無料で乗り放題
鉄道会社の福利厚生で、最も利用価値のあるものは職務乗車証だろう。会社によっては俗に「パス」と称する、社員に支給される無料定期券のことである。
学生アルバイトの時は、自宅最寄り駅から勤務駅までしか乗れない区間制のものが支給されたのだが、それでもその分の通学定期代が浮いて助かった。
その後、社員として勤務するようになると、自社全線乗り放題のものが支給された。もちろん勤務以外にも、例えば隣県への買い物などの所用でも使えるし、自社の電車で移動できれば交通費は全くかからないので、大いに重宝した。まさに究極のフリー乗車券である。退職した後、予想以上に電車賃が小遣いを圧迫することに驚いたものだ。
便利の裏側…それはペナルティ
一見すると「乗り放題」という言葉の魅力には余りあるのだが、実際のところ職務乗車証は少し厄介である。最大にして唯一の脅威が紛失だ。職務乗車証を紛失したら、直ちに上司に申し出ることになっているのだが、もちろん始末書だけでは終わらない。その後も厳しい処分が待っている。
紛失してもすぐには再発行されないから、その間は自腹で通勤することになるし、毎年チャンスがある昇進・昇職試験の内申書でもマイナス評価となる。すなわちその年度はあらゆる試験に受からない。
さらに聞くところによれば、個人の社内履歴にも残り、いわゆる「前科者」になるのだとか。「あぁ、○○クンはパスを失くしたことあるんだね〜」というのが退職までつきまとう…などというウワサも先輩から伝え聞いた。なんとおそろしい…。どこの組織でも当たり前のことなのだが、チョンボして良いことなど何もないのだ。
ある日、街中で落とし物として職務乗車証が拾われて、それが本社に届いた。実は落とし主の社員は、紛失したことを会社に隠していたので、大問題となってしまった、なんて話もある。職務乗車証はクルマの運転免許のように数年に一度更新されるので、それまで逃げ切るつもりだったのか?それでも旧券と引き換えだから、どの道バレて御沙汰を受けることになるのだが…往生際が悪いとはこのことか。
あわや昇進試験不合格??
そんな私も、一度だけ紛失したことがある。正確には紛失「未遂」で済んだのだが。
ある年の夏、仲間と撮り鉄旅行に出かけた。その日は何か所も撮影地をレンタカーで慌ただしく周っていた。とある撮影ポイントでお目当ての列車を待っていたとき、ふとスボンのポケットに違和感を感じた。
私はズボンの尻にあるポケットにパスケースを入れていたのだが、そのポケットがカラなのだ。
「しまった!」
どこで落としたのだろうか。写真撮影のことなど吹き飛んで、頭は真っ白、顔は真っ青である。
すぐにレンタカーに戻るが、車内には見当たらない。そうなると、どこか外で落としたことになる。直前で撮影した高台のある公園だろうか?仲間を撮影地に残し、ひとりレンタカーで急ぎ公園に戻る。駐車場から高台へ駆け上がる。撮影した場所一帯の草むらをくまなく見るが、パスケースは見つからない。
いよいよ万事休すか、今年の昇進試験の合格は無いな…そう思ったとき、近くに遊ぶ二人の小学校高学年ぐらいの女の子がいることに気付いた。
聞くだけ聞いてみよう。
「こんにちは。この辺で茶色いおサイフみたいなの、落ちてなかった?」
「あ…ありましたよ、これですか…?」
奇跡だ!彼女たちは私のパスケースを拾って持っていたのだ!
「ありがとう、それオジサンのなんだ」
そういうと怪訝な顔をしながら引き渡してくれた。
慌ただしく礼を述べて少女たちと別れ、ひと安心して高台から下りたが、彼女たちは私の恩人だ!なにかお礼をしなくてはなるまい、と思った。
公園の入り口にドリンクの自動販売機があったので、そこでコーラを2本買い、再び高台へと駆け上がり、「これ、お礼だから!ありがとう!」と言って一方的に渡し、私は仲間の元へと急ぎ戻ったのだった。
こうして、私の職務乗車証紛失事件は無事に解決した。
しかし、当時の紛失のショックとともに忘れられないのは、コーラを渡した時の、先程よりも増しに増した、彼女たちの不審そうな顔…きっと私は「変なおじさん」だったに違いない。