ちょっとひと休み。子なし36歳のたどり着いた自分探しの答え。
閑話休題。
生きる意味を考えていた。
小さくて弱い自分は、言葉にできない『何か』があれば
強くなれる気がしていて
今思えば、周りに賞賛されそうな、誰かから認められそうなことを
口に出せば、自分が偉い人になれたようで心地よかったのかもしれない。
とんだ茶番だ。
生きる意味を考えていた。
私があまりにも辛そうにしているので『そんなに辛いならもう考えるのやめなよ、考えすぎ!』と、先生にも友人にも言われた。
でも、やめられなかった。これは粘り強さというのだろうか?
自分で『答え』を出したかった16歳の冬。
ほどほどのところで、考えるのをやめて
日常のちいさな華を見つけることもできず。
ただ一点集中型で、まじめに考えていれば答えが出ると思っていた。
答えが出ないものなんて無いと強く思っていた真っすぐな私。
いつの間にか、正解があることに慣れてしまった17歳の秋。
生きる意味を探していた。
『幸せになりたい』って、布団の上で泣きながら叫んでいた。
大人になるための準備が刻一刻と迫る中、デリケートな心が破裂しそうだった。19歳の夏。
『生きる意味なんてないんだよ』
誰かがそっと教えてくれたのに、
『いや、絶対にある!』と譲らなかった22歳の春。
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36歳になって今もなお、私は『生きる意味』を探していた。
やっぱり、生まれてきた意味を知りたくて。
自分の心がいつも揺れていて落ち着かなくて。
迷いがなく生きられたらいいのに…
と何者にもなれない自分を認められなかった。
はじめてネットで検索してみた。
『生きてる意味なんてわからなくていい』
多くの哲学者の人たちがたどり着いた答えが、
『生きる意味なんてわからない』だったそうだ。
フッと肩の荷がおりた。
私には、まだまだ考えなくちゃならないことがたくさんある。
知りたいことが山ほどある。
試してみたいことがたくさんある。
働いて収入だって得なくてはならない。
どうやら私の頭の中で、
『生きる意味探し』はかなりの容量を占めていたようだ。
『生きる意味なんて誰にもわからない』
『ただし、こうありたい、や、こうしたいというビジョンを持つことは大切だ』
という一文を読んだとき。
頭の中でドーパミンが解き放たれた感じがすごくあり、文章に留めておきたいと思った。
誰かがそっと教えてくれたとしても、その時にはわからなかったであろう。
自分のタイミングで、自分が受け入れたいと思ったときにはじめて
すんなり腑に落ちた。
ただ、ひとつだけわかったことがある。
わたしはお風呂上りの火照った体でベットの上をゴロンゴロンするのが好きだ。
『自分だけの至福』を増やしていくために今日も私は生きている。
※写真は、風邪をひいてしまい食欲がなかった時のお昼ご飯。
自分だけの時の食事は、基本、適当なので。シイタケとねぎを切って、麺を茹でて、おつゆを煮立たせて。ストックしてある市販のおあげさんを添えれば完成。