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謝自然と謝氏一族

この前謝自然について書いたが、この謝自然もあの謝氏一族なのかとちょっと気になったので調べてみた。

あの謝氏一族とは、東晋の時代「淝水 の戦い」の勝利で栄華を極めた謝安・謝玄、詩文で名高い謝霊運・謝恵連や南斉の謝眺等々を輩出した名家のことである。

<謝安>

名門謝一族の歴史は古く、祖先は炎帝の時代にまでさかのぼっている。
元々は姜姓を名乗っていたが(姜は中国では有力氏族の姓。あの太公望の姓も姜)、謝の地に封じられた(受封於謝=現在の兗洲龔邱縣謝城)。
後、封を解かれたが、居住地の名前をとって、それを名字とした。それが西普が滅んだ後、江南の地に移り、南朝の都建康に住んでいた。

謝自然は唐の時代の人で、その一家の先祖は兗洲(エンシュウ)の人であり、住んでいたのは果州南充(現在の四川省南充市)と伝えられている。

謝氏が東晋の頃の栄華の時代も終わり、唐代になると一般の貴族になっていった様子は、劉禹錫の七言絶句「烏衣巷」にも詠まれている。
嘗て南朝の都として栄えていたところも、今は普通の町並になってしまっているという栄枯衰勢の感慨を述べている詩の中でも名作と思っている。
詩を詠んだ劉禹錫は中唐の詩人で、謝氏を代表する謝安の時代からは三百年ちょっと経っている。

<劉禹錫>

「烏衣巷」 劉禹錫
朱雀橋邊野草花   朱雀橋の辺りには野草が花咲き、
烏衣巷口夕陽斜   烏衣巷の入口には夕日が射し込んでいる
舊時王謝堂前燕   昔には王家や謝家の屋敷の前を飛んでいた燕も
飛入尋常百姓家   今は普通の人の家に飛んで入って行く。

詩に読まれている「朱雀橋」と「烏衣巷」は建康の名所とされるが、赤(朱)と黒(烏=カラス)の色鮮やかな対比が対句をつくるのに適していることも大きく影響しているだろう。
『漢詩の事典』に掲載されていた「南朝建康平面想像図」に朱雀橋と烏衣巷の位置を書き足したものを下に載せておく。

< 南朝建康平面想像図『漢詩の事典』>

朱雀橋は、秦淮河にかかっている航の一つである。 航とは、舟を並べてその上に板を渡して歩いて渡れるようにしている浮橋のことで、取り払いば外敵の侵入を防げるという防御に都合のよい仕組みである。朱雀橋界隈は南朝建康の町でも最もにぎわった場所と言われている。
いまはそこには野草が花を咲かせている。

烏衣巷とは、東晋を代表する王氏と謝氏の二大貴族が住んでいた地区と言われている。中国では有力氏族は固まって住むのが好きなようで、現代中国でも北京の中南海地区は中国共産党幹部の居住地として有名である。
この地区を何故烏衣巷というかは諸説があるようだが、地名とかの固有名詞の由来はけっこう眉唾な話が多いので、どれを信じるかは各個人のお好みで…。
こんな場所にも夕日が射し込み(要するに斜陽→落日という詩的感覚)、昔だったら高級住宅街を飛んでいた燕も、今は普通の家々に入って行く。

尚、「百姓(ヒャクセイ)」は日本語の農民(ひゃくしょう)を意味しているのではなく、あらゆる職業の人々を指しているのに注意。要するに一般人を指している。

話を謝自然に戻せば、この謝一族も唐の時代になれば当時の勢いはなく、ましてその傍系の家族であれば地方の役人をやっていてもおかしくはない。本貫も兗洲と一致している、だから、謝自然は謝氏一族であったであろう可能性はかなりありそうだが、それ以上は資料が見つからないので何とも言えない。

未だよく調べてはいないので単なるメモ書であるが、唐の詩人元稹の奥さんの実家も謝家である。奥さんの実家は一流貴族の家柄だったとどこかの本に書いてあったと記憶しているので、この謝一族の末裔なのかもしれない。
私なんぞが気楽に「唐の詩人元稹」なんて書いているが、元稹は唐の宰相にまで上り詰めた政治家でもある(こちらの方が本職)ので、そういった一流貴族から妻が来ていたとしてもおかしくはない、というか当り前であろう。

こんなことを調べていて一番うれしかったのは、「謝自然」という項目が大漢和に見つからなかったこと。補巻も調べたがなかった。いゃ~嬉しかったですね。なんせ漢字に関しては私の最後の砦がこの大漢和なので、これに出ていない項目を探していたという自分に非常に満足した。これで心残りなく死ねます。

【参考】

『太平廣記・巻第六十六』<出集仙録>
松浦友久編『漢詩の事典』(大修館書店)
松浦友久編『校注唐詩解釈辞典』(大修館書店)
簡野道明講述『和漢名詩類選評釈』(明治書院)
『晉書』 卷七十九 列傳第四十九 謝尚 謝安


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