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鵬斎 酒佛経第8回

鵬斎 酒佛経 図7

投五體而醉倒     全身を投げ出して、酔って倒れてしまう。
須臾酒力湧上昏昏騰騰 たちまち酒力が滾々滔々と湧き上がり
不辨四方       上下上下四方を気にしなくなり
幕天席地        気宇壮大になって
忘物忘身       周囲のものも自分自身も忘れ去ってしまい
耳不聽雷霆      雷が鳴っても聞こえず
目不視泰山      泰山があっても見えず
直入酕簡之勝地    たちまちのうちに酔っ払った気分のいい状態になり
得大歓喜       大いなる喜びを得た。
酒佛再白佛曰     酒佛は再び仏に言った
我此米汁即除一切我想一切癡想  私のこの米汁は全ての己に凝り固まった
                考えと愚かな想いを取り除き

【語句】

五體     全身
須臾     [シュユ] しばらく、少しの間。
昏昏     [コンコン] 昏は「くらい」の意味。
       多分に同音の滾滾の意を重ねたか
騰騰     [トウトウ] 騰=のぼる、あがる(升)。
       こヽでは同音の滔滔を意識したか
幕天席地   [バクテンセキチ] 志気の壮大なるをいう
酕簡     [ボウトウ] 酕も𨡒も各々「酔っている」の意。
       それを重ねた酕簡は「極めて醉たる貌」となる、
       遇酒酕𨡒飲(姚合詩『広韻』)。
勝地     [ショウチ] 景色又は地形のすぐれた地、景勝の地。
       今のねーちゃん語では絶景。
我想     [ガソウ] 己に執着した考え
癡想     [チソウ]  愚かな想い

【蛇足自注】

五體(五体)
元々は仏教からきており、具体的には、頭・両手・両足を指す。
四肢及首、名爲五體(資持記、下、三之二)。また、体の構成要素としての筋・脈・肉・骨・毛皮とも、或いは右膝、左膝、右手、左手、頭首の併称との説もある。いずれでも転じて、全身・総身の義である。
身体全体のことを四體ともいうが、この場合には両手・両足だけを数えている。
もちろん、こヽでの投五体は五体投地(全身を地に投げ出して、全てを喜捨するという恭順の意を表す礼拝)を踏まえている。
五體投地、禮於聖王(法苑珠林)。翻譯名義、雙膝雙肘及頂至地、名 五體投地(通俗褊、釋道、 五體投地)。
尚、実際の五体投地がどんなものかは、野町和嘉『地球順礼』に出ているチベットでの写真を見ていただくのが一番かと思うが、著作権の問題があろうかと思うので割愛する。

須臾
元々は仏教での時間の単位で、一昼夜が三十須臾、すなわち一須臾は今でいう四十八分間をさしている(定方晟『須弥山と極楽』)。それなりに長い時間であったが、どこかで別の時間単位の刹那と混同されるようになったようだ。須臾、乞沙拏、Ksana 刹那也(梵語雑名)。
定方さんによれば、仏教での時間単位は次のようになっている。
   年  12カ月
   月  30昼夜
   昼夜  30須臾
   須臾  30臘縛(ろうばく)
   臘縛   60怛刹那
   怛刹那 120刹那
刹那  最小の時間単位で、昼夜=24時間からの単純計算で 
    1/75秒に相当する。

昏昏騰騰
一般的な意味では、昏昏は「日の入りて暮れんとする時を云又天色の曇る也」(天文)や「暮春の頃天気のくもるを云」(時令)であろうが、こヽでは鵬斎先生は同音の滾滾「泉の流れ出て尽くることなきを云」の意味を重ね合わせているのだろうと思う。
騰騰も一般的には「馬のはねあがる㒵を云」(走獣)を指しているが、こヽでは滔々「大水の順流する㒵を云」を意識して使っているのであろう

幕天席地
元来は劉伶の『酒徳頌』(前出)に出てくる言葉で、逐語的に訳せば「天を部屋の幃とし、地を敷物とする」となる。これから転じて、士気壮大な状をたとえることに使うようになった。


仏教用語として使われる「我」の字は「己に執着する」という意味になる。
我見とか我意、我欲、我執とか全てこの意味で使われている。

【参考】

杉村英治『亀田鵬斎』(三樹書房)
野町和嘉『地球順礼』(新潮社)
定方晟『須弥山と極楽』(講談社現代新書)
佐々木閑『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人)
白雲居士著『畳字訓解』(太平書屋)
維基文庫@web


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