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亀田鵬斎 酒佛経第4回
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故稱其功徳曰忘憂物 だからその功徳を称して「憂いを忘れる物」と言い
又曰掃愁箒 また「愁いを掃うほうき」とも言っています。
称其風味曰沆瀣 酒の風味は仙人の飲物である「コウガイ」と言われ
又曰甘露醍醐味 また「甘露」とも「醍醐味」ともいわれています。
菩薩常借其智 菩薩もいつもその智慧を借りて
消己慧業 自分の行った善事を消し去っているので、
故私称曰般若湯 自づから称して般若湯と呼んでいます
若有衆生 だれでも
受持此經 このお経を堅く信じ
恭養是佛 この仏に恭しくお仕えすれば
百由旬内 百由旬の範囲の中では
無諸災患苦悩 諸々の災害、患いや苦しみ、悩みは無く
悪夢悪相 悪い夢や兆しもなく
【語句】
忘憂物 憂を忘れさせるもの。酒のこと。
中国の古典では酒の代名詞としてよく使われる。
掃愁箒 愁を掃うほうき。酒の異名
沆瀣 [コウガイ] 一般に仙人の飲物とされていが、
仙界の飲物なので俗人には詳細は不明。
甘露 天下太平のしるしに天から降る甘い露。甘露味如飴蜜、
醍醐味 醍醐は牛酪の精純なるもの、味甘美にして滋養に富む。
転じて仏性又仏法の妙趣に喩える。
慧業 空理に達して而も種々の善事を為すこと
業 仏教では「善悪の報いを引き起こす行為」を指す。
業苦は悪行の報いによって受ける苦しみであり、
業火は悪行の結果、地獄で受ける激しい火である。
若 もし、もしくは。もしこうあったならばこうと云意なり(荻
生徂徠『訓譯字蒙』)この仮定条件文は恭養是佛まで続き、
速證菩提までかかっている。
受持 受=うけとる(取)、うけつぐ(承継)。
持=たもつ(保)、まもる(守)。
したがって、このお経を受け取って保持するの意。
出典とされる法華経法師品でも、一般には受持を一語として
解釈しているが原文は「若善男子善女人、於法華経乃至一
句、受持讀誦解説書寫・・」となっており、受以下の各文字
を一字づゝに解釈しても、宗派的な解釈を別にすれば、特段
の問題はない。
恭養 下の者が上に供奉する。
恭=うやうやしく、粛也[説文}、和従不逆謂之恭。
養=やしなう、
由旬 佛教での長さの単位。六町一里で四十里・三十里・十六里など
の諸説がある。
相 うらない(占)、人の容貌によりて其の心術運命を判断する
→ きざし(兆し → 吉相=喜ばしき前兆)
【蛇足自注】
忘憂物
陶淵明詩「飲酒 其七」がもっとも有名であろう。
秋菊有佳色 裛露掇其英 汎此忘憂物 遠我遺世情
一觴雖獨進 杯盡壺自傾 日入羣動息 歸鳥趨林鳴
嘯傲東軒下 聊復得此生
陶淵明の詩の中でも特に好きな詩の一つでもある。
掃愁箒 蘇東坡詩「洞庭春色并引」が出典。
安定郡王以黃甘釀酒、謂之洞庭春色、色香味三絶。以餉其猶子德麟、
德麟以飲余、為作此詩。醉後信筆、頗有沓拖風氣。
二年洞庭秋 香霧長噴手 今年洞庭春 玉色疑非酒
賢王文字飮 醉筆蛟蛇走 既醉念君醒 遠餉爲我壽
瓶開香浮座 盞凸光照窓 方傾安仁醴 莫遣公遠嗅
要當立名字 未用問升斗 應呼釣詩鈎 亦號掃愁帚
君知葡萄惡 正是嫫母黝 須君灔海杯 澆我談天口
尚、この詩で使われている「釣詩鈎(詩趣をつり出すつりばり)」も酒の
異名。
沆瀣
北方夜半の気。一説に露の気。一説に海の気(字源)
『楚辞・遠遊』には 餐六氣而飮沆瀣兮、漱正陽而含朝霞とあり、青木正
児さんは「六気を喰らい、夜半の気を飲み、日中の気にはすすぎ、早朝の
気を含み」と訳している。さらに注して、「王注に仙人陵陽子明の經というものを引いて、春は朝霞を喰い、秋は淪陰を喰う。冬は沆瀣を食う、夏は正陽を食う。これらに天玄の気と地黄の氣を幷せて六氣と爲すのであると解いている(実際にはもうちょっと詳しく説明)」と説明を加えられており、さらに細かく論述した後で結語で「要するに仙人の食い物なのである」と言っている。
一般的に、沆瀣は、白楽天詩のように、仙人の飲む最上の物を指すと理解されていた、
白楽天詩「卯時酒」
仏法讃醍醐、仙方誇沆瀣、未如卯時酒、神速功力倍。
甘露
天下太平のしるしに天から降る甘い露。甘露味如飴蜜、
道常無名。樸雖小。天下莫能臣也。候王若能守之。萬物将自賓。天地相合。
以降甘露。民莫之令。而自均。(『老子・第三十二章』)
嘉禾、醴泉、甘露、嘉禾生於禾中、與禾中異穗、謂之嘉禾醴泉、甘露、出而甘美也、皆泉、露生出、非天上有甘露之神、地下有醴泉之類、聖治公平而乃
沾下産出也。莢、朱草亦生在地、集於眾草、無常本根、暫時産出、旬月枯折、故謂之瑞。夫鳳皇騏亦瑞也、何以有種類。 (「論衡・講瑞篇第五十」)
爾雅》又言甘露時降,萬物以嘉,謂之醴泉。醴泉乃謂甘露也。今儒者説之,謂泉從地中出、其味甘若醴、故曰醴泉。二説相遠、實未可知。案《爾雅》釋水章泉章一見一否曰。檻泉正出、正出、涌出也。沃泉懸出、懸出、下出也。(「論衡・是應篇第五十二」)
醍醐味
善男子譬如従牛出乳、従乳出酪、従酪出生酥、従生酥出熟酥、従熟酥出
醍醐、醍醐最上、若有服者、衆病皆徐、云云、言醍醐者、喩於佛性。
『涅槃経・聖行品』
由旬
佛教での長さの単位。世界の大きさといった大きい距離を表すのに用いられている。
古代インドでは、須弥山世界は次の図のようなものとされている。この図の中の瞻部洲がインド大陸を指していると考えられている。
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定方晟『インド宇宙誌』では諸説のうち「約7㎞」を採用している。
【参考】
杉村英治『亀田鵬斎』(三樹書房)
青木正児『新訳 楚辞』(春秋社)
荻生徂徠『訓譯字蒙』(太平書屋)
定方晟『インド宇宙誌』(春秋社)
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