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列仙酒牌ー黄石公(こうせきこう)

張良の項にも出てきたが、黄石公という人物がいる。この黄石公は、張良との関係で『史記・留候世家』に出てくるが、それ以外には全く出てこない。『列仙酒牌』では、張良とは別に出てくるので、その図を以下に示そう。

<列仙酒牌 黄石公>

讃は次のように読める。
【讃】安知非秦之隠君子
      秦に与せぬ隠れた君子がいるのをどうして知ったのだろうか
(酒約)各酌有著述者一杯
      それぞれが著述がある人に一杯ずつ酌をする

黄石公と張良の話は『史記・留候世家』に出てくるものがすべてで、粗筋は次のようになっている。
秦の始皇帝の暗殺に失敗した張良は、下邳に隠れていた。ある日張良が散歩していると、橋のたもとで一人の老人に出会った。

その老人は自分の履いていた履を橋の下に落とし、張良に「若僧、下に行って履を取って来い。」と言った。

張良はムカッときたが、頭のおかしい年寄と喧嘩するのもなんだからと思い、言われるまゝに履を拾ってきた。

すると老人は今度は「履を履かせろ」というので、なりゆきで跪いて履かせてやった。老人は笑って立ち去ったが、一寸行ってから戻ってきて「教え甲斐がありそうだ。五日後の早朝にここで会おう」と言った。

おかしいことを言っているとは思ったが、とりあえず「はい」と答えておいた。五日後の早朝に張良は橋の袂まで出かけたが、老人はすでに来て居て、怒って言った「年寄りを待たせるとはなんだ。また五日後の早朝に会おう」。

五日後張良は今度は真夜中に出かけ、老人の来るのを待っていた。
しばらくすると老人はやって來「こうじゃなくちゃいかん」と言って一巻の書を取り出し「これを読めば王者の師となれる。十年たてば盛んになり、十三年後にお前は済北の穀城山の麓の黄石を見るだろう。それが儂じゃ」。

その書物は太公望呂尚の兵法書であり、張良はそれを熟読した。果たして張良は漢の高祖の知恵袋として、秦を倒し、天下統一を成し遂げたのである。

<黄石公図>

この老人の名前は伝わっておらず、「済北の穀城山の麓の黄石を見るだろう。それが儂じゃ」ということから黄石公と呼ばれている。
この話以上の事跡は伝えられていないが、知謀の臣として高名な張良に、戦術の基となる太公望の兵法書を与えたのであるから、この人物が人智を超える能力を持った仙人であることは間違いないだろう。

この話は有名な話であり、いろんな人によって描かれている。下にそれらを示そう。

<黄石公図>

現代人の皮相な見方をすれば、張良がこの老人と会ったのは深夜から早朝にかけての人通りがほとんどないであろう時間帯であり、しかも二人きりである。
誰かがこの場面を見て記録に残したわけではあるまい。
とすれば、この話は張良が劉邦に売り込む時に語った話かもしれないし、また後々の張良の活躍を見て、なにか特別な書物によって得た力ではないかと考えた人がそう伝えたのかもしれない。

歴史の書物を読む場合、それが一定の権威をもつものであっても、というか、むしろ権威を持つ書物であればあるだけ、それを誰が報告し、誰が非難・称賛し、誰が記録したのかを考えながら読む必要があろう。

中国の秦の丞相だった李斯という人物がいる。秦の始皇帝を補佐して強力な軍事国家を形成し、ついには中国統一を成し遂げたという桁外れの男である。しかし、現在の一般の歴史書では評判が良くない。
法家思想を採用して国内を強力に統制し、信賞必罰で国民を強制的に統制した。特に評判が悪いのは後に「焚書坑儒」と呼ばれた政策で、それ以降の儒者(まぁ中国の官僚のほとんど言ってよい)から口を極めて非難され続けてきた。李斯が失脚して死刑にされる直前、<次男に「もう一度黄犬を引いて兎を追いたかった」と言って泣き、一族皆殺しにされた>と嬉しそうに言い伝えている。
李斯列伝は、李斯の立場というより、趙高によって嵌められていく李斯の姿を描いている。

幸田露伴翁はさすがである。李斯の業績を文字の統一を中心に語り、その事績を振り返っている。秦の次の王朝漢で名宰相とうたわれた蕭何と比べて決して劣るような人ではなかったろうと述べ、その歴史を見る目の在り所を示している。

まぁこういった「歴史の見方」についてなら、一番お勧めできるのが魯迅大人の「魏普の気風および文章と薬および酒の関係」という講演を文章化したものである。
中国国民党のクーデター直後、共産党シンパとして何を語るのか、内容によっては逮捕しようとしている国民党と警察の監視の中で行われた講演である。しかし、そういった思惑を韜晦するかのように淡々と話したこの講演は、魯迅の最高傑作である、と個人的には思っている。中国史のみならず、歴史に興味ある方なら、歴史をどう眺めるのか、を知ることのできる一文である。

この講演の中で魯迅は三国志の曹操を取り上げ、『三国志演技』や 芝居に出てくる曹操は悪役とされているが、これは「曹操を観察する正しい方法ではありません」と断定しています。
幸田露伴翁も魯迅大人も古代中国の話を題材にしていますが、話は別にそんな古い時代でなくとも同じでしょう。

今の学校で教える歴史では、明治維新は堕落の徳川幕府を正義の薩長公家連合が倒したようになっています。そういった風潮に乗っかって「明治維新万歳」を唱え続けて国民的作家になった人物もおりますが、江戸の歴史また明治の実態をちょっと眺めただけで、そんな単純な話ではないということはすぐにわかります。
また、日本人を戦場に狩りたて、多くの戦場・銃後での死傷者を出し亡国を余儀なくされた戦争をあたかも意味あることであったかのように教え、戦争を指導した人物とその後継者がそのまま居座っている状態が妥当であるのかどうか、歴史を眺める目でもう一度問い直すのも肝要かと存じます。

蛇足自注

李斯の最後
二世二年七月,具斯五刑,論腰斬咸陽市。斯出獄,與其中子俱執,顧謂其中子曰「吾欲與若復牽黄犬俱出上蔡東門逐狡兔,豈可得乎!」遂父子相哭,而夷三族。 (『史記・卷第八十七』李斯列伝巻第二十七)

幸田露伴の李斯に付いての見方
秦は疾く亡び、漢は長く栄えたから、蕭何は功あり徳あるとされ、李斯は酷薄峻烈な人のようになっているが、李も荀卿の学徒である。後人の酷議にかかるような人では無かったろう。それでなくては何様して短い歳月に六国を滅して天下を一にすることが出来るものではない。(幸田露伴「文字と秦の丞相李斯」)

魯迅の歴史の見方
いま私たちが歴史を見なおす場合、史書の記載と論断とは、しばしば非常にあてにならない、信用できない点が多いのであります。
そのわけは、私たちが史書を見てすぐわかることは、長くつづいた王朝だと、すぐれた人物がたくさん記録されているが、短い王朝の場合、さっぱり人物がいないことです。それはなぜかと申しますと、年代が長いと、歴史を書くものが同じ王朝の人間ですから、どうしても相手を持ち上げることになる。ところが年代が短いと、歴史を書くものが別の王朝の人間になるから、したがって自由にけなす結果になります(魯迅「魏普の気風および文章と薬および酒の関係」)

【参照】
『任渭長木刻画四种』<学苑出版社、中国>
『酒牌』<山東書籍出版社、中国>
野口定男訳『史記』巻第五十五 留候世家巻第二十五(平凡社)
野口定男訳『史記』卷第八十七 李斯列伝巻第二十七(平凡社)
『太平廣記・巻第六』張子房<出仙傳拾遺>
『太平廣記・巻第二百九十四』黄石公<出捜神記>
幸田露伴「文字と秦の丞相李斯」<露伴随筆第五褊、岩波書店>
魯迅「魏普の気風および文章と薬および酒の関係」
            <竹内好編訳:魯迅評論集、岩波文庫>

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