『出生時に割り当てられた性別』という用語は非-科学的なのか

以下の翻訳記事を偶然目にしてしまった。

原の記事はボストン・グローブ・メディアに2024年4月8日に掲載されたものであり、「ソーカル事件」で知られる物理学者アラン・ソーカルと、『利己的な遺伝子』で知られる進化生物学者リチャード・ドーキンスという著名な2人の科学者によって執筆された。

副題「政治的な大義のために事実を歪曲することは、それがどんなに正しい目的のものであっても、決して正当化されるものではない」という文言は強烈である。

記事の概要は以下の通りである。

米国医師会や米国小児学会は男性(male)と女性(female)の伝統的な用語法が「包括性」と「公正さ」を損なうという理由から、科学的根拠に基づき「出生時に割り当てられた性」という言葉を採用した。
これは、すべての哺乳類における性別(sex)は性染色体によって決定され、そして性別(sex)はただ2つのみであるという科学的事実を無視している。
性別は単なる「割り当て」ではなく、血液型や指紋と同様の客観的指標であり、「出生時に割り当てられた性」という用語は社会構築主義の暴走である。
さらに性別は心理学、社会学、公共政策における重要な変数であり、世界中で、殺人の大多数は男性によるもの・女性は男性よりもはるかにシングル・ペアレントになる可能性が高いなど明白な統計的特徴がある

性別という変数は長く医学的診断と治療において無いものとされ、女性の身体が男性の身体と同じように反応・作用するという暗黙の前提が保持されてきた。これに対してフェミニストたちは長く抗議してきたにも関わらず、「出生時に割り当てられた性」という用語はこの差異を抹消するものである。

トランスジェンダーの人々を差別やハラスメントから守るために、性別(sex)がただ単に「割り当てられた」ものだとまで述べる必要はない。社会的または政治的な大義のために事実を歪めることは、それがどんなに正しい目的のものであっても、決して正当化はされない。科学を自称する組織が社会的大義のために科学的事実を歪めるとき、その組織自身の信頼性だけでなく、科学全般の信頼性も損なわれる。

https://www.bostonglobe.com/2024/04/08/opinion/sex-gender-medical-terms/

公的な性質を持つ科学的機関が「科学的事実」を歪曲してはならない、というのはもちろん多くの人が納得する点であろう。

しかし、ことにジェンダーに関する問題において、「科学的事実」とは一体何であろうか。本記事で雌雄の明確なマーカーとして取り上げられる「性染色体」に、いかに生物学研究者らによって「女性らしさ」や「男性らしさ」といったジェンダーが読み込まれてきたのかは、科学史家のサラ・リチャードソンによる『性そのもの』(法政大学出版)によってすでに詳細に明かされている。

リチャードソンはさらに、2018年に公開したオンライン記事において、何が生物学的性差を決定するマーカーだと考えるのかは科学ではなく社会の側だと話す。
当該記事は以下で翻訳している。
https://note.com/witty_elke1121/n/ncd6b9339b5f9?sub_rt=share_pw

また、フェミニズムの知見は、「性差(sex)」胎児や新生児に割り当てられることと、その後の生が社会のジェンダー規範に沿ったものとして想定されてしまうことがいかに不可分であるのかを繰り返し語ってきた。指紋や血液型と性別が異なる点は、日常生活において前者二つが要求されるのはかなり特殊な場面であることに対し、性差に基づく想定や必要以上の区分は日常生活の至る所に存在している

そもそもソーカルとドーキンスが言うように性差が「染色体」に基づいて明確に二分されるということと、「出生時に割り当てられた性」という用語は全く矛盾するように思えない。出生時に割り当てられた性は当然一部染色体に依拠しているだろう。

問題の所在は、その性別が本人の性嗜好や性別認識の一貫性のあり方まで本質化するような社会に私たちが生きているということである。

「出生時に割り当てられた性」という用語こそ、こうした本質主義を正当化しない、性別の「科学的な」部分のみにフォーカスした医学・科学実践を可能にするのではないだろうか。科学的機関こそ、社会的な「性別の割り当て」に基づく本質主義から離れ、あくまで割り当てられたものとして個々人の生き方を尊重しつつ、医療や医学の場面では身体的性差に気を配った治療や処方などを行うべきだからである。「性別の割り当て」という用語が採用されたことで、根本的に医学や科学のあり方が変化してしまうという発想こそ、まさに著者らが警鐘をならす「社会構築主義の暴走」だと言える

著者らが危惧するように、実際「出生時に割り当てられた性」という用語を採用することで、男女の身体的性差に関する医学的・科学的議論はできなくなってしまうのだろうか。

答えは否である。このように、差異を強調することで差別が起きてしまうものの、差異をなくしてしまうとそれもまた問題が生じるという事象は「差異のジレンマ」と呼ばれ、当然フェミニズムの知見の中でも長く議論されてきた。

ソーカルとドーキンスの記事では、「出生時に割り当てられた性」という用語が何十年にもわたるフェミニストたちの努力を否定するものかのように描かれる。しかし、性差を本質化せず、同時にいかに医療や創薬及びイノベーションの場で性差を考慮するのかという問題について取り組んできたのもまたフェミニストたちである。代表的なものが、ジェンダード・イノベーションと呼ばれるスタンフォード大学主導のプロジェクトである。
提唱者である科学史家のロンダ・シービンガーは、その初期より様々なインタビューや記事において、ホルモン治療を受けるトランスジェンダーもまた医療において周縁化されてきた集団であり、治験などの際に考慮に入れることが必要だと繰り返し述べている。つい昨年発売されたばかりの入門書『ジェンダードイノベーションの可能性』(明石書店)への特別寄稿でも例外なく、トランスジェンダーの心臓疾患のリスクに言及している。

実際に「出生時に割り当てられた性」という用語が科学や医療現場において混乱を起こしているのであれば、当然そのことにも触れられるはずであるが、実際そのようなことは起きていないのである。いかなる用語を採用するかとどのように科学が進められるのかはある程度切り離して考えることができる。

公的な性質を持つ科学的機関が「科学的事実」を歪曲してはならないのは当然のことであるが、「出生時に割り当てられた性」という用語の採用によって歪曲されている「科学的事実」は何もない。

当該記事を翻訳している方の過去の翻訳記事が、いわゆるトランス排除的とされる典型的な言説ばかりであるように、科学的に何が正しいとされるのかという問題を俎上に上げることは、時に特定の集団の生のあり方を否定し差別を正当化することと一つなぎになっている。「科学的事実」が重みを持つ世界において、その「科学的事実」が表明されるのは、私たちの日常の言葉を通してである。私たちの日常世界のなかで差別的言説が横行していれば、「科学的事実」の言明はいとも容易にその差別を「科学的」に裏付けられたものへとすり替えてしまうだろう。



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りん
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