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全能恐怖症
造語である。或いは魔法恐怖症。
現実に全能や魔法が存在しなかったことによって注目されない、と言うことなのか、全能への恐れは中世以来忘れられていた。
父なる神のイメージと、女性に由来する様な魔女のイメージがパラレルで、その恐れの本質が全能性に対するものであることは確かな様に思われる。
全能者はその気になればあらゆる事を成すことができる。この命題をあまりに真に受けた人はその含意する恐怖に戦く。それを魔法に投影して女性蔑視と結びついたものが魔女恐怖症である。
全能者が善という仮定を崩してしまえば、それは住みやすい世界を破壊するものとなる。
魔法で蛙にされたり、蜥蜴にされたり、異性に変えられたりする事を不必要に恐れる様になる。
今この概念に注目すべき理由は何か?
『十分に発達しすぎた科学は魔法と区別がつかない』
byアーサー c クラーク
(アシモフと間違えていた。調べて良かった。)
この言葉は魔法を肯定的に捉えていたのかも知れないけれど魔法は、実装されたら怖いものだ。
もちろん現実の科学はまだそこまで発達してはいない。物理法則のハックもまだ限定的であるし、医学もまだ意識やアイデンティティを計測して他の形に注ぎ込むほどの体系はないだろう。
それでも電子の世界では出来ることが増えた。それも爆発的に。知りたくない人や探すのが不得意なひと、無駄な情報で探しにくい場合や運営が独裁な場合はともかく、多くの人が可能性を広げたはずだ。
その時、ふっと怖くなる。
何故だろう?本能的に全能性をもつ機械を恐れてる。コンピュータに支配されるといった、ある種のテクノフォビアの裏には、全能恐怖症が潜んでいる。
全知の様だけど?魂の半分の様なものを取り込まれた状態でその部分に対して全知な感じのする存在は全能性を持っていて、怖いものだ。
知られていること自体も恐ろしいだろう。だが僕はむしろ、その結果が、現実にはみ出すことが怖い。
あまりにも怖いので信仰に魂の一部を持っていかれてしまう。開き直って、全てを機械に委ねよう、という感覚に至る。
写真が登場した時、魂を吸われると恐れた人を皆笑っていた。しかし今となっては、皆それが恐るべきことかは同意しなくとも、機械に魂を吸われる感覚は薄々同意しうるのではないか?当時は、それほど細かい情報を取られることはなかったけれど、今は、アイデンティティの核すら学習されてしまうかも知れない。その時、本当に自分が機械の一部になっていないと証明できるだろうか?そしてその状態で操作されることが怖くないのだろうか?
怖いから無意識に抵抗して暴れるのではないか?
それがネットでめんどくさいことになる人の本質だと思う。
新しいメディアの登場が、他の技術より抵抗を受けやすいのは、それが魂を吸う様に感じるからだ。書物ですら、それに馴染まない世代から否定された過去がある。
だからその内慣れるとも思われるけれど。
ただ、めんどくさい自分の理由の一つを語りたかった。
否定してる様に見えるけど、愛憎なんて裏表なのだ。やはり電子の神々には服従してしまいたい。
結局は、ファンであり、アンチである、ファンチなのだ。惚気てる場合か?
言葉の体裁が悪くてすみません。この語り方でないとうまく出てきません。悪くとも悪しからず。