東京大学「ボーカロイド音楽論」講義を読んでの感想、反対意見
はじめに
このnoteは鮎川ぱて先生の東京大学「ボーカロイド音楽論」講義を読んだ上の個人的な感想を書くnoteです。今第一章の初めの15ページを読んだだけでこのnoteを書いています。何なら酒が回っています。そんなレベルで思った感想を垂れ流しておきたいなという趣旨です。ただ、確かにと賛同する部分はそれで終わってしまうので基本的にはぱてさんの主張を読んで、僕は違うなと思ったことを書くと思います。
基本的には自分が見返して、自分の思想を思い出す用。あとはまあ多分他者に感想をもらったらうれしいし、ぱてさんに読書感想文を読んでへーと思ってほしいかも。まああの教室の人はみんなこの手の思想を溢れるほど持っていると思いますが、、、
(追記)
まとまる気配がないので日記感覚で加えていきます。自身の生活の忙しさもあって不定期&終わらないかもしれないです。
あと、好き勝手書きすぎて表現がよろしくない。気分を害したらすみません。
初読の感想、及び動機
僕は過去実際にこのぱてさんの授業に参加していました。当時はサークルやらに追われていて全部の回は出ていなかった気もするけど、とにかく面白かった。なので内容も何となく覚えていて、読む前は新しいことはないだろうけど「うわ、こんなこと言ってたなぁ」というのを思い出すだけで楽しいだろうなと思って買った。しかしながら、自身の思想の成熟に伴ってか、音楽嗜好の広がりに伴っているのかわからないが本当に以前とは感じ方、意見が違っている。本で読むからじっくり思考できているのも大きいのだろう。
まず初めにそういう風に一つの講義から色々な議論、思考が巡るという時点で素晴らしい本、講義だと思っている。内田樹さんの言葉を借りれば、この本は非常に「知性的」な本だ。むしろだからこそこのnoteを作ろうと思ったわけで、この本は内容を読んで理解するだけでなくそれを受けての自分の思考にこそ価値があると強く感じた。なので留めておこうと思う。(ただ、これはただの自分の悪い癖だという考えもある。実際ぱてさんの授業のレポートも、授業を聞いたうえでのつもりではあるが読み返すとほとんど授業の内容は入っていなかった,,,私は元来自分の思想を話したいのに空気を読んで抑えてしまうことが多いので、一度あふれてしまうと自分の意見ばかりになってしまう。)
とはいえそれはぱてさんの姿勢と方向は同じなのではとも思う。そもそも本書は「この本には、あなたの声があります」から始まるのだ。なのでこのnoteは、いわば東京大学「ボーカロイド音楽論」講義の副読本、「読者Aの声」である。
第一章 ハチ=米津玄師
米津玄師の漢字出てこなさすぎだろ。さすがに流行遅れてるよwindows君。
「砂の惑星」~マザーグース
ハチの「砂の惑星」とwowakaの「アンノウンマザーグース」をつなげて論じるというのはシーン及び個人を間近で見ていないと出てこない観点だよなあ。なるほどと思った。「砂の惑星」をこれまでのボーカロイドシーンのマザーグースとするという論は確かに賛成。ただ、やっぱりボーカロイドシーンは終わっている(=砂漠)というのはそのままの意味なのではないかと僕は思う。
というのは、今のボーカロイドシーンはハチやwowakaが全盛期だったころとは違って商業化に飲まれているからだ。その意味でかつての「一般人が思い思いに自分の趣味嗜好の産物を垂れ流す」ボーカロイドシーンは死んでいるのだ。これはある意味で、かつてのボーカロイドシーンはニコニコ動画と心中したと言っている。ぱてさんはここでプラットフォームが死んでもボーカロイドシーンは生き残る(そうでなければ)と言っているが、僕はそうは思わない。
vtuberの隆盛とボカロの商業化
これは今のvtuberの台頭を受けて強く感じている。僕はvtuberが好きだ。特にホロライブが好きだが、他のも見ている。そこで感じているのが、死ぬほど多いvtuberがこぞってボカロ曲をカバーしていて、さらにボカロPもそれにある種迎合しているのではという事だ。これはtiktokの流行も一因だろう。ぱてさんはtiktok上等と言っているが、僕の反骨精神はNOと言っている。ニコニコの衰退、Youtubeの台頭とvtuberの隆盛に伴って明らかにボーカロイド音楽は商業化している。
正直今の若手のボカロPの曲を僕はあまり聞いていないのだが、それでもこのような強い偏見を持つのは、今のシーンではそれが自然だと感じるからである。というのは、商業シーンが必ずしもハリボテの建前を喧伝する場ではなくなっているのである。これはまさに過去のボカロをはじめとしたサブカル文化のメインカルチャー化が原因であり、また自分の意見を持たないとインフルエンサーと電通に喰われる不安定な現代社会のおかげである。
今となっては、偉い人が画一的な風景、テンプレートな感情が若者の心をとらえないことにようやく気が付いた。(それでもspotifyのチャートはアイドル曲と、エモい恋愛を等身大で描いた3コードで完成するアコースティックが根強いが。) なので商業シーンでもかつてのアングラであった一人一人のドロドロとした個性が売り出されている。vtuberシーンもその例に漏れない。ターゲットは今までと変わらず、個性的なキャラを伴ったゲーム実況とアイドルムーブでオタクの心を離さない。最高。ここで今までと違うのは、彼女らは偶像ではないという事だ。AKBよりもさらに手の届きやすい,
ただのかわいいゲーム実況者だ。そういう前提の上である人は今まで通りのアイドルを夢見て努力するし、ある人はゲーム実況に振って好きなことで生きていくし、ある人はゴシップをかき集めてvtuberという新天地にダークサイドを生み出す。
そのような個性の展覧会がyoutubeには広がっていて、オタクはビュッフェ形式で自分に合う個性を推すのだ。しかしここで問題なのが、ただの個性の展覧会ではキャッチーが存在しない。どこまで行っても商業にはある程度の画一性を持ったキャッチーさが必要なのだ。そこで有効なのがボカロ曲というわけだ。
vtuberは初めはどれだけ歌が上手くても、知名度に伴う収入がないとオリ曲ではバズれない。だから最初は地道な配信でチャンネル登録者を増やし、ボカロ曲の歌ってみたを投稿して歌唱力をアピールする。そして十分なオーディエンスと資金を用意した上で、オリジナル曲を発表する。これも作曲から動画制作まで全て自分で人に依頼して作ってもらう。歌ってみたでたくさん使われている有名ボカロPがそのオリ曲を作るのはターゲットからして必然だろう。つまりどういうことかというと、今の再興したボーカロイドシーンは以前とは異なって商売として成立してしまったのだ。その資金源はvtuber文化の恩恵とプロセカの成功だ。
とまあここまでで、現在のボーカロイドシーンは以前とはその性質を全く変えてしまったとやや批判的に主張したが、これは全く悪いことだとは思っていない。むしろ元々趣味でニコニコに投稿してくれていたP達が商業として成立した現代においてプロのクリエイターとして活躍してくれているのはすごく嬉しい。ただ、こう考えるとやはり利益度外視での趣味の音楽、趣味の思想をぶちまける場という意味でのボーカロイドシーンは死んだのだと思う。生まれ変わったというべきか。金にならない0から1を生み出していたかつてのボーカロイドシーンは存在せず、文脈と依頼者の要望に合わせた上で自らの個性を出すのが現在のボーカロイドシーンと考えている。
「砂の惑星」は5年前の作品で、当時はまだ今のようなシーンは形成されていなかったが、当事者から見るとそのような今までのボーカロイドシーンの死というのは感じていて当然だと僕は思った。むしろそのうえでハチは「今のシーンはもう死んだよ。みんなこれからどうする?」と問いかけているのではないだろうか。今のボーカロイドシーンはハチの書いたマザーグースに応答したかつてのボカロP達の復活劇だ。とはいえやはり以前のボーカロイドシーンに対する寂しさも大いにある。僕はまだ石見陸名義の、死ぬほどロックなナナホシ管弦楽団を聞きたいんだ。
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