長ノ木街道の今 その0
ファッ!?なんじゃこりゃ〜
【第零部、プロローグ】
長ノ木街道。それは明治時代以降に鎮守府がおかれた呉へ向かう道路が整備される以前、呉と広島を結ぶ唯一の陸路として使われていた道である。現在でも広島県道174号瀬野呉線として拡幅され使われている区間や住宅地の中の一般道路として使われ続けている区間も多いが、里道となっている区間、さらにはほとんど人の往来がなくなった区間も存在する。今回そうした廃道区間の現状調査を兼ねてこの街道を歩き、情報として公開することとした。
現在はJR呉線や国道31号、クレアラインのように広島湾沿いをなぞるルートが主に使われるが、広島−呉間は山が海に迫っているため、かつては海上交通を除くと内陸を通る今回の峠越えの道が主要ルートだった。実際に江戸時代、広島藩第8代藩主浅野斉賢がこの街道を通り、後述する澤原家に宿泊したとの記録が残っている。海田で山陽道(西国街道)と別れ、熊野方面へ行く道とも分岐し灰が峰の山麓を周り、長ノ木の尾根筋を通って呉市街へ下りるという現在と全く異なるルートを先人たちは辿っていたのである。この「長ノ木」という地名は「この世界の片隅に」のすずさんの嫁ぎ先として耳にしたことがある人もいるかも知れない。
先述したように、形を変え現在も使われている区間が多くを占める一方でほとんど使われなくなった区間も一部存在する。しかし、そうした区間の現状を知りたいと思って調べても、まずストリートビューは通っていない。明治時代以前はあまり表舞台に出てこない地方都市とはいえ何かしらまとめたものがあっても良いものだと思うが、長ノ木街道と調べて検索結果で出てくるのは呉-広島の交通路だったことと澤原家の話ばかり(関係者の方ゴメンナサイ)。なら自分で行くしかない。そう思い立ち、桜花爛漫の3月末、山の方へと赴くことにした。
ではまずは街道が現役で使われていた時代と現在の地図を比較してみたいと思う。
という訳で、今回は呉から最終的に海田に至る長ノ木街道のうち、呉の旧市内(戦前の市域)の部分を探索した。前半(【第一部(水色)】〜【第二部(青)】)では澤原家や石碑に立ち寄りつつ住宅街の中を登っていく。住宅街区間の中盤に小さな神社があり(76mのあたり)、スタート地点からその神社までを【第一部】、その神社から涼ミ岩バス停(広島県道174号線との合流地点)までを【第二部】とする。そして後半(【第三部(赤)】〜【第四部(緑)】)では県道への合流・離脱を繰り返しながら中央地区(峠の南側)と焼山地区(同北側)との境である神山峠を目指す。【第三部】では本題の廃道らしき区間も通り、その後の【第四部】では県道のつづらを串刺しにして一気に峠へ到達する。【第三部】以降は県道がそばにある訳だが、今回はこのレポートの本題である廃道区間を通るため、所々で県道を外れてできるだけ街道を忠実に辿ったつもりである。ただし途中アクシデントがあり一部街道を辿れていない箇所があるのでそこはご了承ください。今度また行って加筆します。あと帰りに寄ったすずさん家の跡などをおまけとして少々載っけておきます。
ちなみに第二部までは平和そのものです。第三部まで飛ばしたいって人はこちら↓
<第三部へのリンク予定地>
以下いくつか保険に加入させてください。
・現在フツーの住宅街とフツーの山なので、訪問する際は近隣の迷惑にならないようお願いします(一応)
・内容的には市のHPなども参考にしてできるだけ正確な記述を心がけていますが、一部間違い・不足等あるかと思います。そこもご容赦ください。
指摘には順次対応していくつもりですので、何かあればコメントでお教えくださると嬉しいです。
その1へ続く
<その1へのリンク予定地>
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