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表現の違和感 種と花粉 畑とめしべ

前置き


長年、きっと数百とかの単位での比喩表現だろうから、今後も変わらないのでしょうが、現代知識から考えると違和感があるため書くだけ書いてみた。
※注意。やや不妊に関する記事や望まない妊娠、子供の虐待関連にも触れてる。


そもそもの発端


理科の授業で、植物の生態の成長と子孫の残し方を習って、生物の場合も習いました。
どちらにしても、メス、オス両方の遺伝子から半分ずつ受け継いで、種や卵になる。

だけど、

過去、授業でやらなかった範囲でも、学校の教科書をパラパラ読むことがあったのですが、
道徳か、保健体育の教科書にちらっと、古そうな作品の抜き出しで、
子供が生まれない夫婦についてどちらが原因なのかというような話になったとき、男性側の因子を種、女性側を畑と書いてあってすごく違和感だった。
他にも、意図せず子供ができたことを話す隠喩として種と畑が使われている作品とかあった。具体的にお家騒動とか、ひとり親の理由としてドラマや小説などで使われたりしてました。
でも、植物のに対応しての比喩だとしたら、正確には種でも、畑でもあないのがずっと引っかかっている。

現代的観念に基づいて


植物に対応しての比喩で現代的に考えるなら、
男性側は、「種がではなく、花粉。」
女性側は、「畑でなくて、雌しべ。」


女性が望まない妊娠をしたときに、女性だけ非難されたときの反論的な隠喩としても正確性を考えるなら、
(肥沃な土地に咲くみずみずしい花であっても)「雌しべに花粉が運ばれなければ、種はできない」
とかにすべきだと思う。

正確性で比喩されるべき

理科の分野を習っている現代人には、種という表現だと、それだけで子供をさしているように感じる。なんだか、主要になっているのは男性で、生まれる子供に女性側の性質はほぼないようなイメージをもたせるし、不平等な感じがするので、変えるべきではないだろうか。(水だけで野菜を育てる農家もいる、畑は絶対に必要な要素ではすでにない。)

過去の比喩の使われ方に関係して

片方だけで子供ができることはないのに、女性ばかり非難されてる地域性や宗教的、文化的なのか、人類全体の刷り込みなのかよくわからないけど、男性側はあまり非難される情報が発信されにくい気がするのはどうしてなのか。母親が虐待や心的ストレスで子供を精神的・身体的に大きく傷つけ、殺した同然の行為をしたとニュースになったとき、子供父親にあたる男性の話がまるで出ないことがいまだに多い気がする。(父親側も虐待をしていたときは、出てくるけど、母親は虐待してなさそうな事件のニュースでも母親はニュースに載る。一人親と出る場合もあったりなかったりしてるような)

いまだに、子供は母親が見るもので父親はノータッチでも構わないと思ってる記者が多いのかもしれない。

印象は、やっぱり重要になることもあるので変えていかないといけないと思う。


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葛のことのは
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